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男のプライド
一条、と雑に書かれた部屋の前に立ち、烏丸はネクタイを締め直す。
それは、アビタシオン・エトワールの百三号室だった。
郵便受けには、チラシや封筒が溜まって溢れ出している。烏丸は呼び鈴を押すが、音が鳴らない。壊れているのであろう。
そこで彼は、すぅっと息を深く吸い込んだ。そして。
「一条さん!いらっしゃいますか!」
応援団長さながらに、近所中に聞こえるようなバカでかい重低音で、部屋主を呼んだ。
部屋の中からバタバタと音がしてきて部屋主が勢いよく玄関を開ける。
「んだ、こら、てめえ!煩えじゃねえか!」
そう言って色黒で金髪の男は咥え煙草のまま、来訪者の胸ぐらを掴もうとしたが、目の前に居るのは熊のような大男だったので、出しかけた手を引っ込めた。
男を見下ろしながら、烏丸は胸ポケットから蛇皮の名刺入れを取り出すと、人の良さそうな笑顔で名刺を差し出した。
「すみません、元気にだけは自信があるばかりに、つい」
一条は名刺を受け取って一瞥すると、直ぐにポケットに突っ込んでドアを閉めようとする。烏丸は足でドアを押さえてそれを阻んだ。
「ここは利便もよく大変素晴らしい物件ですね。然しインターホンも鳴らない、もしかすると、一条様は他にもご不便を感じている事もあるかと存じます。そんな一条様に今だけの大変お得な物件情報を持って参りました」
今だけ、という言葉に、とっとと帰らせてやろうと思っていた一条の心が揺らいだ。
烏丸は尚も続ける。
「失礼ですが、此方のお家賃はおいくらですか?」
「五万だよ、だから何だ」
「月々五万円を支払いして火災保険が二年に一度更新と計算しますと、単純計算で三十年で二千万円の維持費がかかります。問い合わせが殺到しているのですが、私の取り扱っているマンションで一室一千万円でお取引を行っている物件がありまして。これを月に換算すればマンションの維持費を含めても三万六千円でご案内できます」
一条は聞いているうちに扉を閉めようとする手を緩めていた。烏丸が見せるマンションの外装は真新しく、間取りも五LDKと、今の部屋より充実していたのだ。
「賃貸もしているんですが、なかなかこの値段で販売しているマンションは無いものですから、ご購入される方が多いです」
「ちっと、詳しく聞いてもいいか」
「ええ、勿論」
一条は烏丸を招き入れると戸を閉め、缶ビールの空き缶が散らかった部屋を雑に片付けた。
烏丸は狭い廊下を進んで部屋に入ると、テーブルに資料を並べる。
一条は案の定、ローンは通るのかを真っ先に聞いてきた。無論、烏丸は懇意にしている銀行の名前を羅列し、その場で一条の年収から借入が出来るかどうかを試算した。
「概ね、大丈夫かと思われますよ。住宅ローンは三千万前後が相場ですから、この物件は安い方です」
「嗚呼、安いよ、どうしてこんなに安いんだ?」
一条は、烏丸に会ってからもう三本目になる煙草を灰皿に押し付けて聞いた。
「予め申し上げておくと、事故物件なのです」
烏丸のその一言に、彼は途端に顔を顰めた。
想定の範囲内の反応に、烏丸は物怖じせずに、物件の内装写真を見せながら答えていく。
「ですが、ご安心ください。部屋の中で何かがあった訳では無いのです。ご家族の一人が他所で自殺なさったのです。本来なら一つ前の居住者より以前の情報は告知する義務が無いのですが、うちは良心的な営業を心がけていますから。一つ前の方は転勤でご家族でお住まいになっていらっしゃいました。何事もなく、また転勤されたので、ただ安くなっているだけですよ。まさか、幽霊なんて非科学的な事を信じている訳ではありませんよね?」
烏丸が困ったような顔で笑うと、一条はここで幽霊が怖いだなんて言うのが気恥ずかしく思えて。
「当たりめえだろうが!んなもん、いて堪るかよ!」
腕組みをして強がってみせた。
そうは言ってみるものの内心、恐ろしかったのだ。その本音を、目の前の大男に悟られてしまうのは、彼のプライドが許さなかったというだけで。
そして、烏丸はこの男の見せかけの強がりに気付いていた。同時に、人の上に立つのが好きな性分であることも、この部屋に入ってきてから、ずっとベットの上に座って自分を見下ろしている視線から読み取っていた。
烏丸は畳み掛けるように続ける。
「寧ろ、海外では事故物件の方が高値で取り引きされるんですよ。ポルターガイスト現象があるなんて言えば付加価値がついて値が上がります。幽霊屋敷に住んでいる気丈な人間だと思われたいのでしょう。ありもしない幻想等に惑わされず、知的に大胆に生き抜く、それは男の中の男といった具合でしょうか」
「はんっ!大の男が幽霊ごときにビビってどうすんだよ、金だよ、金、金」
烏丸が煽れば、思惑通りに一条はベットの隅の引き出しから判子を取り出すと、烏丸の前でチラつかせた。
「居もしねえ幽霊にビビってこんな得な話を蹴っちまう馬鹿共は一生高え金払って暮らしてりゃいいんだ。俺は買うぜ」
彼はしたり顔で笑った。烏丸はうんうんと頷いて、ご賢明な判断です、とだけ言った。
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