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彼岸への序章
一週間後の日曜日、朝早くからアビタシオン・エトワールの二百三号室のインターホンが鳴った。
黒縁の丸眼鏡をかけた色白の青年が戸を開けると、煙草を咥えてにんまり笑った一条がいた。
「おう、西村、今日はてめぇに言いてえことがあって来たんだ」
「また、ですか?今日は僕は椅子も引いていませんし、今起きたばかりです」
「まあ、そうビビんなよ」
一条に肩を組まれて、西村と呼ばれた青年は顔を逸らしながら肩を窄める。
その様子を見ながら、一条は西村の顔に煙を吹きかけて言った。
「今日でてめえとはおさらばだ。陰気なオタクは一生高え家賃払ってちまちまとくだらねえ玩具作ってな」
西村が噎せかえれば、一条はゲラゲラと腹を抱えて笑いながら、西村の部屋の玄関に煙草を落とし靴の裏で揉み消す。
「それが言いたかっただけさ、あばよ、腐れオタク野郎」
虎の首でも取ったように、一条は部屋を後にして意気揚々と歩き出した。
自慢の愛車の黒いセダンに乗り込むと、エンジンをふかして走っていく。
西村は、一条が捨てていった煙草をさも汚いものでも扱うように割り箸で掴むと、箸ごとゴミ箱に捨てた。
暫く放心したように、その場に立ち尽くす。
そして、クスクスと声をあげて笑った。
「自由だ!僕は自由だぞ!」
その場でぴょんぴょんと飛び跳ねて、誰もいない下の部屋に向かって足音を響かせた。
携帯電話をポケットから取り出すと、嬉々として電話をかける。
「あ、裕太?久しぶり、ちょっと良い事があったんだ、今日これから皆で僕の家に集まってゲームしようよ!」
彼はコンピューターゲームのスイッチを入れると、クローゼットの奥に仕舞い込んでいたスピーカーを接続して、少年のように無邪気な笑顔を見せた。
引っ越し業者が荷物を運び込むと、一条は広々とした新居を改めて眺めて感激のため息をついた。
同行してきた烏丸が、マンションのベランダの窓を開けて景色を見せる。
「どうです?ここは角部屋ですし、夜になれば都会の夜景を見ながらワインを飲むのだって悪くない景色でしょう?」
「嗚呼、最高の気分だぜ!これが俺の城だ!」
新居に合わせて奮発して買った大きなベットに寝転がりながら、一条は余韻に浸る。
艶々のフローリングに洒落たカウンターキッチン。モダンなデザインが細部まで施された内装。最新の機能を備えたバスルーム。
どれを取っても、一条の自尊心を満たすには充分すぎる程だった。
「これから、是非、快適なマンションライフを送ってください」
烏丸はそう言って一条と固く握手をすると、ではこの辺で、と言って部屋を出た。
一条は、新居の匂いを胸いっぱいに吸いながら、ベランダに出る。
そして、煙草に火をつけて、眼下の景色を眺めた。
人も車もありとあらゆるものが小さく見えて、彼はフッと笑った。
「そうだよ、この景色こそ俺に相応しい」
日曜日というのに忙しなく動いている人の群れの中に、黄色い帽子を被った少年が立ち尽くして此方をじっと見ているその視線と目が合った。
学校は休みの筈なのに、少年は黒いランドセルを背負って、体操着入れを手に持っている。
彼は、人混みの中でただ一人、その場に立ったまま此方を見ていたのだ。
事故物件なんです。
烏丸の言葉がふと脳裏をよぎって薄寒い気持ちになったが、直ぐに気の所為と思う事にして、部屋の中に入り、ぴしゃっと戸を閉めた。
午前一時。
一条は寝付けずにいた。
引っ越しが終わったばかりで気持ちが落ち着かないのか、灰皿には既にケシモクの山が出来上がっていた。
ぴちゃん。
キッチンから聞こえてくる雫の滴る音が気になって、何度か蛇口を閉めに行った。だが、確認すると雫など一滴も垂れていないのだ。
杞憂かもしれない、と思って、酒を煽りながら、ベランダの戸を開けて夜景を一望する。
宝石箱を開いたようなその光景に見惚れて、また一口、缶ビールを煽った時だった。
昼間見たのと同じ場所に、同じ少年が佇んでいたのだ。
暗くてよく見えないが、黄色い帽子が暗がりの中にぼんやり浮かび上がってきた。
目を凝らしてみると、少年は一条の方に指を差したまま、ただ、そこに立ち止まっている。
流石に気味が悪くなって、慌てて部屋に戻ると、戸とカーテンを閉めて、残りの酒を一気に飲み干した。
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