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Episode 27
「ちょ、あっぶねぇな!」
木製のデッキブラシの先端、柄の部分で目を突かれる寸前で避けた南斗の台詞だ。
夜の三時。すでに営業を終えている祖父母が営む食堂「朝陽屋」に来ていた。いつもひとり残り閉店後店内の掃除している陽一に頼みたい事があり、施錠されていない裏口から厨房に入った。そのとき、南斗は彼にデッキブラシの柄を突きつけられたのだ。
「お前が泥棒だったら感謝状もんだったのによ」
悔しそうに舌打ちした陽一は、デッキブラシを肩に担いで客席の方へと歩き出す。
祖父母を気遣い閉店後の掃除を引き受けてくれている陽一に、南斗は後ろから声を掛ける。
「いつもサンキュな」
「二代目だから。それよか、こんな時間にどうした?」
そう言いながら陽一は四人掛けのテーブル席の前で立ち止まると、デッキブラシをテーブルに立て掛けてから振り返った。
「あのさ、陽サンというか夕雅サンに頼みたい事があんだけど……」
「アニキに用ってことは、とうとうホストに転職か」
朝陽屋の常連客から従業員になった陽一の前職はホスト。名を馳せたホストだった彼の一晩の売上げ記録は現在も破られていない。三歳年上の兄夕雅も元ホストで現在はホストクラブから気軽に飲める店まで複数の店舗を経営している。兄弟揃って業界では一目置かれる存在だ。
「違げぇよ」
南斗は素早くボディバッグのベルトを引っ張り、背中から胸の前に回す。ファスナーを半分ほど開けて、上着を巻きつけていない方の手をバッグに突っ込む。蛇淵の財布から現金と一緒に抜き取った名刺を取り出して言う。
「Amphisbaenaの蛇淵右京って知ってる?」
「ナル、こいつがあのスネツイ…スネークツインズだぜ」
「スネークツインズ……」
聞き覚えのある単語に記憶を巡らせれば、すぐに手繰り寄せることができた。一時期朝陽屋の常連客の風俗嬢たちが口々に悪態の限りを吐いていた名前だった。
「思い出したみてぇだな。あのとき女の子が言ってのは右京の方な。業界じゃエグい経営で有名。ホストじゃねぇ弟の左京も兄貴に負けず劣らずヤバい奴だぜ」
「何で名刺なんて持ってんだよ。まさかスカウトされたとかじゃねぇよな」
「こいつらにツレがちょっかい出されて困ってるから、どうにかならねぇかと思って……」
「そのツレってポチ…犬飼ミツルって奴じゃねぇだろうな?」
「え、なんでポチの本名知って……」
「あやしいバイトで知り合ったのか」
遮るように質問を質問で返してきた陽一に、聞き直すことはせず南斗は言う。
「ま、まぁな」
「何の依頼でって聞きてぇところだけど、チュリの件で借りがあるし聞かないでやるよ」
「で、どの程度追い込むよ?」と陽一は不敵な笑みを含む。
「そうだな。兄弟揃ってポチの周りをうろつけなくしてくれりゃいい」
「筋モンの血を引いてる割には甘いな、ナル」
そう悪戯っぽく笑って陽一は、前掛けエプロンのポケットから携帯電話を取り出す。液晶画面を指先でスライドさせてからタップすると、耳に電話を当てながら続ける。
「ちょっと待ってな」
耳に電話を当てたままの陽一は背を向けると、そのまま厨房の方へと歩き出した。その背中を厨房の奥へと消えるまで視線で見送った南斗は、右手の痛みで我に返る。
(…世間は狭いってホントだな)
ポチと出会った経緯や先程まで監禁されていた事を話さずに目的を果たせた事に安堵する。
「俺もバイトのこと、ばあちゃんに黙っててくれる借りがあるから聞かねぇでやるよ」
南斗は陽一の口調を真似て笑みを含むと、客席側のカウンターの方へと向かう。
カウンターの隅に置かれたペンスタンドをひっくり返して、手錠の鍵穴に差し込めような先が尖ったものを探す。ペンや鉛筆の中からヘアピンを選び取り、客席の方へと戻った。
厨房側だけに明かりが灯されており客席側は薄暗い。天地逆にテーブルに上げられた椅子の足が刺々しいオブジェに見える客席。そのひとつに南斗は椅子を下ろし腰掛ける。
「外れっかな」
そうぼやいて二つ折りのヘアピンを銜えて右腕に視線を遣る。
手錠が掛かったままの右手。配管に掛けられていた片方を右手にぶら下げたまま街を走れば、間違いなく通行人の目を引く。職務質問されないためにも隠した方がいい、と南斗は店を出た直後に羽織っていた上着の袖から左腕を抜き、右腕に巻きつけていた。それを取り真っ直ぐに伸ばしたヘアピンの先端を手錠の鍵穴に差し込む。その中をかき回すようにヘアピンを動かす。ものの数秒で解錠した南斗の顔が真剣なそれから安堵に変わる。今度は右手首内側に負った傷を隠すために、上着を巻きつける。
「このシャツ、気に入ってたのに…」
血痕ってどうやって落としゃいいんだよ、と南斗はボヤキながら、胸の前で固定したままのボディバッグに外した手錠を突っ込む。ファスナーを閉めてバッグを背中に回したそのとき、ふと鷲北のことを思い出す。
鷲北は声を掛けてきた自分が突然消えたことを、不審に思っているだろう。近澤と梶井の二人にも連絡が行っているだろうことも安易に想像できた。いますぐにでも鷲北に電話をするべきだと思い立つよりも先に近澤の顔が浮かんだ。
(今回は自力だし。蛇淵の電話が鳴らなきゃヤバかったけどな)
まるで狙ったかのように蛇淵の携帯電話が鳴らなければ、状況は違っていたと南斗は思う。あの我妻とは別の狂気を感じた蛇淵とヤク中の男を、まともに相手にしていれば右手の怪我だけでは済まなかっただろう。そんなことを考えていると、「わりぃ」と陽一に後ろから声を掛けられて振り返る。
「用件だけ話して切ろうとしたら近況聞かれてさ」
どんだけ心配症なんだよったくよ、と陽一は悪態を吐きながら椅子を下ろして腰掛ける。
うんざりした口調ながらも何処か嬉しそうな陽一を笑って言う。
「いいじゃん。心配してくれる兄貴がいてさ」
「ま、気遣いはプライスレスだからな」と笑った陽一は続けて言う。
「スネークツインズ、夜明けから真綿で首を絞められていくぞ」
「サンキュ。今度なんかおごる」
「ポチに何も心配するなって伝言頼むわ」
「ただいま」
漫画喫茶「Speed Ball」が入る雑居ビル。その屋上のペントハウスへと続く非常階段を駆け上がる。一番上の踏み面(ふみづら)まで一気に駆け上ってきた南斗は、荒い息もそのままにテーブルに座る近澤に言った。
「おかえり」
南斗は毎日交わしている帰宅時の挨拶に、何となく笑みが込み上げて口端を引き上げる。荒い息を整えるかのように、ゆっくりとした足取りで近澤が座るテーブルに歩み寄れば、梶井がない事に気づいた。
「テツは?」
南斗はボディバッグをテーブルに置きながら、近澤の正面に座る。
「鷲北の店だ」
「テルさんから電話あった?」
「あぁ、ナルが突然消えたと電話があった」
「あ~、やっぱ電話かけねぇとダメか…」
椅子に斜めに腰掛けている南斗は、テーブルに肘を付いてその手で目を覆う。どう鷲北に話せばいいのかよりも平然としている近澤に苛立ちを覚えれば、無機質な電子音が耳に飛び込んできた。視界を遮断していた手を引いて顔を上げれば、その音は目の前で鳴っていた。スピーカーモードに切り替えられている携帯電話から呼び出し音が鳴っていたのだ。助けを乞うように近澤を見る。
「そのまま話せばいい」
まるで蛇淵とのことを見ていたかのような近澤の口振りに眉根を寄せたのも束の間。すぐに、「もしもし」と鷲北の声が電話の向こうから聞こえた。テーブルに肘を付いたままの南斗は携帯電話に触れずに、いつもの口調で言う。
「テルさん、俺」
「ナル!もういきなり消えちゃうから心配し……何があったのよ?」
「ごめん。あのさ……」
そう切り出した南斗は自分の身に起こった一連の出来事を簡潔に話し始める。鷲北は相槌を打ちながら、話を最後まで聞いてから言った。
「あの夕雅(ゆうが)に任せたのなら安泰ね」
「俺とテツじゃ役不足ってことかよ」
「そうじゃないわよ。ナルはカルシウム不足ね。小魚食べなさい」
「あ、そうだ!あいつらからポチの慰謝料と治療費ぶん取ってきたから」
「さすが、ナル!」
鷲北も通話をスピーカーモードに切り替えているのか、突然梶井が割り込んできた。事前に近澤から聞いていこともあり、南斗は驚かずに会話を続ける。
「陽一サンからポチに伝言「何も心配するな」ってさ」
「伝えておくわ」
「ママ、ナルも無事に帰ってきたことだし飲もうぜ」
軽い口調で梶井が鷲北に向けて言った言葉に、主役の俺がいねぇのに?と南斗は思った。しかしそれを口にはせず、もう一度心配を掛けたことを詫びて電話を切った。
「ちっと風呂行ってくる」
一呼吸置いてから言った南斗は椅子から立ち上がる。近澤に色々と聞きたい気持ちを抑えて、先に上着を巻きつけたままの右手を洗う事にした南斗は、ドアが開け放たれているペントハウスの方へと向かう。
ペントハウスに入ってすぐの壁にある埋込スイッチを押して、部屋の照明とシャワーユニットの浴室の電気を点ける。南斗は冷蔵庫に直行して何か飲もうと思ったものの、ベッドの状態になっているソファベッドの方へと歩を進める。その前で立ち止まり、少し慎重に右手に巻いている上着を解いてベッドに投げ捨てる。続けて服や下着を次々と脱いでその場で全裸になると、そのまま浴室の方へと向かった。
南斗は二十分もせずに浴室から出る。濡れた髪もそのままにボクサーパンツとスウェットパンツだけを身につけると、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出してペントハウスを出た。
「チカ」
上半身裸で首にタオルをかけたままの南斗は、テーブルの反対側にいる近澤に声を掛けた。背中を向けている近澤が振り返ると同時に缶ビールを投げ渡して、南斗は目の前のテーブルに腰を下ろした。
南斗は缶ビールのプルトップを片手で器用に開けて近澤の方に振り返る。互いに缶ビールを掲げて『乾杯』の仕草をすると、同じタイミングで缶ビールに口を付ける。南斗は一気に煽って、空き缶をテーブルに置いて言う。
「なぁ、チカって取り乱すことってあんの?」
「どうした急に」
ビル群が望める柵に凭れたままの近澤は、そう言って飲みかけのビールを煽る。
「テルさんから電話あったのに、全然普通じゃん!なんかもっとこうねぇの?」
南斗はイライラをぶつけるように、首にかけているタオルで乱暴に髪を拭き始める。
「助けに来て欲しかったのか」
その言葉にピタッと髪を拭いていた南斗の手が止まる。「そんなんじゃねぇよ!」と語気荒く椅子から立ち上がると、テーブルにタオルを投げ捨てて近澤に歩み寄る。
「ちっとは心配してくれてもよくねぇ?」
「ナルが帰ってくると信じていたから動かなかった」
それだけだ、と近澤はタバコを銜えると、その先をジッポライターで焼いた。
何も言えなくなってしまった南斗は、「ずりぃ」と呟くと、指を使って自分にもタバコをくれというサインを送る。何も言わずに差し出されたソフトパック。切り口から飛び出しているタバコを直接銜えれば、言うまでもなくタバコを銜えている近澤が顔を近付けてきた。必然と距離が近くなり互いに相手を間近に感じながら、タバコの先端を触れ合わせる。二人揃って喫煙するときの約束ともなっているシガレット・キス。伏し目がちの近澤に見惚れているうちに、タバコの先が焼きつく音を立てる。火種を貰い受けたことを確認して離れる寸前、南斗は自分のタバコを口から引き抜いたのも一瞬、次の瞬間にはタバコを手にしている近澤の唇を塞いでいた。
衝動に駆り立てられるまま、唇に触れるだけのキスをして離れようとすれば深く返される。逆に驚いて目を見開けば、顔の角度を変えた近澤に『目を瞑れ』と目で促されて瞼を閉じる。一瞬にして主導権を奪われた南斗は、口腔に差し込まれた近澤の舌に答えるかのように自分のそれを絡ませる。
互いの指から滑り落ちたタバコ二本分の濃厚なキス。ニコチンよりも効いたそれ。
唇を開放された途端、南斗は自分から仕掛けたのにも関わらず、急に恥ずかしくなり視線を逸らそうとしたのも束の間。すぐに右側の首筋から痛みが走り眉根を寄せる。何が起きているのかわからず少し目線を落とせば、我妻に噛まれた場所を上書きするかのように近澤が歯を立てていた。
「…っ」
全身に波紋のように広がっていく甘い疼きに声を漏らす。
近澤が噛み付いている場所から鮮血が筋状になり、南斗の素肌に伝い流れる。血の香りが濃くなる寸前で、首筋から顔を上げた近澤は赤く濡れた唇を拭わずに言う。
「隙は作ってやっただろう?」
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