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Episode 28
やっと日中の気温も下がり秋らしくなってきた十月。澄んだ空気に爽快感を感じる日曜の早朝、南斗は副業のバイトを終えた足で龍丸寺に来ていた。
今日は亡き両親の月命日。幼い頃は祖母に手を引かれて毎月欠かさず、本堂にある位牌堂を訪れていた。ひとりで参るようになり数年、やっと今年の夏に墓を建てる事ができた。ずっと望んでいた誰にも気兼ねすることもなく、いつでも両親に会いたいという思いが叶ったいま、あの法要以降も数回ここに足を運んでいる。
「はよう。今日は早ぇだろ?」
真新しい墓石の前に立ち、両親に笑顔で話しかける。
「夕方、ばあちゃんとジジイも来ると思うぜ」
南斗は声と手話で語りかけると、ジッポライターで線香の束に火を点けた。その場にしゃがみながら手で炎を消して香炉に線香を供えると、父親が吸っていた銘柄のタバコを取り出した。ソフトパックの封を切ると、底を指で弾き飛び出させた一本を銜える。ジッポライターで先を焼き付けると、一口だけ吸って線香に立て掛けるように供えた。
「あっちも、こっちみてぇにどこもかしこも禁煙じゃなきゃいいけど」
そう言いながら立ち上がり、残りのタバコを墓石に立てかける。
「置いて行ってやるから、ばあちゃんに回収される前に吸えよ」
ふっと南斗の顔から笑みが消え、墓石を見つめたまま黙り込む。
しばらくしてまだ報告していなかった我妻との一件を、父親だけに伝わるように手話を使わずに口頭で簡潔に話した。そして二人に近澤のことを伝えようと、今度は母親にも聞こえるように手を動かしながら言う。
「今日は俺がヤバいときに助けてくれるトモダ……」
言葉途中で南斗の手話が止まる。近澤を友達と言いかけたところで、ふと疑問が湧いたのだ。バイクで一緒に来た近澤は電話を理由に寺の外にいる。あの日一度だけ互いの唇の温度を知っただけで、直接的な甘ったるい言葉を交わした訳でもない。恋愛感情を抱いている相手を友達という肩書きで紹介していいのか。眉間に皺を寄せて考えていた南斗は次の瞬間、肝心なことに気がついてはっとする。
(…ちょ、待って。俺たち男同士じゃん!)
今更気づいたところで、想いは揺るがない。ただ祖母に孫の顔を見せてやれないことに、強い罪悪感を覚える。いつか、ばあちゃんに話さねぇとな、と無意識に右側の首筋に残る近澤に付けられた傷痕に触れたのも束の間。
すぐに後ろから声を掛けられて、ビクっと肩を跳ね上げる。
「チカ」
振り返れば近澤が立っていた。
「鬼崎が来てる」と近澤は鬼崎がいる方向を視線で指す。
「え」南斗も目を向ければ、三列先の墓にひとり佇む男の後ろ姿を捉えた。
「部下も連れずにひとりだ」
「あの墓に親父はいねぇって。オッサンに教えてやらねぇと」
ちっと行ってくるわ、と南斗は鬼崎がいる方へと走り出す。
「よぉ、オッサン!」
背中を丸めて香炉に線香の束を供えている鬼崎に背後から声を掛けた。すると、一瞬ビクっと肩を跳ねて振り返った鬼崎が、「南斗さん」と驚いた顔で立ち上がった。
「はよう。アンタらヤクザも早起きなんだな」
「おはようございます。おひとりで来られ……」
そこまで言って押し黙った鬼崎が、鋭い視線を南斗の肩越しに後ろへと向ける。
南斗も釣られて振り向けば、この区画の通路入口に近澤がいた。彼は本堂の壁に背中を預け胸の前で腕を組んで、こちらの様子を窺うように眺めていた。
「……俺を確実に狙える距離だな」
ぼそっと鬼崎は感心するかのように零す。
聞き取れなかった南斗は聞き返すことはせず、自分の方に振り返った鬼崎に言う。
「オッサン、この前言いそびれちまったんだけど」
鬼崎が線香を供えていた藤澤先祖代々の墓を一瞥してから続ける。
「この墓には親父はいねぇよ」
「え、ではご遺骨はどこに?」
「俺らが建てた墓で、お袋と一緒にいる」
南斗は自分が建てたとは言わずに、『俺ら』という言葉を使った。それは祖父母に支えられていたからこそ、両親の墓を建てる事ができたからだ。
「そちらに御参りさせて頂いても」
「あぁ、喜ぶと思うぜ」
そう笑いかけて帰ろうとすれば、「あの…南斗さん」と呼び止められて向き直る。
「なに?」
「いや、何でもありません」
「なら帰るぜ」
深々と頭を下げる鬼崎に、「じゃあな」と南斗は背を向けて歩き出す。
近澤がいる場所へと続いている石畳を広い歩幅から早足へと速度を変えて進む。一度も後ろを振り返らずに近澤に歩み寄ったそのとき、携帯電話が着信を告げる。鳴ったのは南斗のそれだった。
相手を見ずに携帯電話を耳に当てれば、「南斗、いまどこにいる」と信平の声が聞こえた。慌てている様子の彼に、「アンタんちの寺だよ」とあくびを噛み殺しながら言った。
「大至急、うちの方に来てくれ」
「はぁ?!なんで」
「至急お前に頼みたい事がある。一分で来い!」
一方的に用件だけを言って信平は電話を切った。
「おお、悪いな」
緑に囲まれた境内裏手の墓地から本堂兼自宅の方に回れば、開け放たれている玄関で作務衣姿の信平が待っていた。彼は南斗の肩越しに後ろにいる近澤に目礼してから続けた。
「急で悪いが、また俺の代わりに習字教室の先生をしてくれないか?」
「はぁ?何でだよ、一休」
「古くからの檀家さんが亡くなって……親父と出かけなくちゃならなくなったんだ」
遠方だからもうすぐ出ないと、と言いながら信平は南斗を押し退けて、近澤に声を掛ける。
「近澤さん、不躾ですが英語の方は?」
「英語どころか他の言葉も堪能だよ」と南斗が割って入る。
「申し訳ないが、近澤さんも南斗と一緒に子供たちを教えてもらえないだろうか」
「半年前から外国人の子供が増えて……」
「ナルが引き受けるなら」
近澤は英語での指導に苦労している様子の信平ではなく、彼の後ろにいる南斗に言った。
「助かります」と信平は近澤に向かって合掌すると、南斗の方へと振り返った。
「チッ、しょうがねぇな」
「悪いな。朝飯は食べてきたのか?」
「ここに来る途中で食ってきた。つか、いつまでここで立ち話すりゃいいんだよ」
「すまん。さぁ、上がってくれ」
二人を促すように信平は雪駄を脱いで、先に本堂側の玄関上がり框にあがる。
それぞれ靴を脱いで、先を行く信平の後ろを南斗、近澤の順で廊下を進む。
普段は客間兼月例会の部屋として使われている教室に着いた。閉じられた障子戸の向こうから、微かに漏れ聞こえる音程の外れた懐メロ。この寺の住職で信平の父親でもある七十代前半の住職がご機嫌で歌っている。次の瞬間南斗が信平を押し退けて、勢いよく障子戸を左右に開け放つ。
「おっちゃん、相変わらず音痴だな」
お経は上手いが流行歌は音痴な住職を笑ったのも一瞬、南斗は頭を押さえてその場にしゃがみ込む。あっと思うまもなく飛んできた住職の拳骨を避け切れず、まともに食らったのだ。頭を両手で押さえながら痛みに唸る。
「これ、畳の縁を踏むでない」
袈裟姿の住職は胸の前で腕を組んで足元の南斗を見下ろす。
拳骨を食らった意味に気付いた南斗は舌打ちしながら立ち上がる。「口より先に手が出る坊主ってどうかと思うぜ」と南斗は悪態を吐きながら畳敷きの部屋を見回す。季節に合わせた掛け軸と生け花が飾られている床の間の前に無垢一枚板のテーブル、それを中心に座卓タイプの折りたたみ式長机が三列左右に並んでいた。
信平が住職に近澤を紹介しているのを横目に、無垢一枚板のテーブルに載っている半紙の束に目を向ける。信平が事前に生徒の子供たちの年齢別に書いた手本を一枚一枚見ていると、「南斗、しっかりな」と声を掛けてきた住職は部屋を出て行った。
「手本もあるし、ガキが来るまでなんもすることねぇじゃん」
時間まで寝ててもいいか?とテーブルに座る南斗は、信平を振り仰ぎながらあくびをする。
「その手本は見本だ。このメモの枚数書いてくれ」
「…マジかよ」
「それから道具は丁寧に使うんだぞ」
まるで幼い子供に言い聞かせるかのように言った信平は、作務衣から懐中時計を取り出す。一瞥して時間を見ると、「頼んだぞ」と座ったままの南斗の肩を軽く叩いた。
「はいはい。さっさと行けよ」
手で振り払う仕草をすれば、信平は近澤に会釈すると障子戸を閉めて部屋から出て行った。
南斗は部屋を興味深く見回している近澤に声を掛ける。
「つき合わせちまってわりぃ」
「いや、寺の内装に興味があったから別に構わない」と近澤は南斗の隣に座る。
南斗は手首にしている黒いヘアゴムを取り、不揃いの襟足の髪を結びながら言う。
「あとで本堂の方見る?」
そう言いながら南斗は座ったまま後ろに振り返ると、床脇の地袋から硯箱を取り出す。「チカの道具な」と有無を言わせない顔で近澤に硯箱を差し出した。
「生徒は何時に来るんだ?」と近澤は硯箱を受け取り、テーブルに置いた。
「一時間後くれぇかな」
南斗は下敷きの上に載せた半紙を文鎮で止め、「先に手本書いちまうから。道具の使い方は後な」と朱墨液の蓋を開け白い小皿に注いで筆を浸す。手本を一瞥すると半紙に勢いよく筆を走らせた。続けて同じ動作を繰り返し、小学校低学年の生徒の見本、秋にちなんだ文字を平仮名・漢字と書いていく。
近澤は癖の無いバランスの取れた文字を書く南斗の字を見て、彼の祖父母が営む食堂朝陽屋の店内にぐるりと張り巡らされたメニューの字を思い出す。ナルが書いていたのか、と近澤は思った。
「字を書くときは右なんだな」
「左でも書けるけど、一休が右で書けてうるせぇから」
南斗は急須型の水滴を持って立ち上がり、近澤の右隣に腰を下ろす。
「なぁ、テツの今回の散歩長くねぇ?」
梶井は南斗が蛇淵に拉致られたあの日、鷲北の店に出掛けたまま帰ってきていない。彼の店に入り浸っている訳でもなく、ペントハウスに戻ってきていないのだ。
「そうだな」
「手本書いてやろうか」
一瞬眉根を寄せた南斗は水滴の水を硯の窪んだ部分に数滴垂らす。「つか、書きたい字とかある?」と墨を持ち水の無い場所で円を描きながら墨をすり始める。
近澤は手馴れた手つきで墨をする南斗の手元を眺めながら言う。
「それならミナトって漢字を教えてくれ」
「港って画数あるから初心者向きじゃ……」
「そのミナトじゃない。ナルの名前を漢字で書きたいんだ」
遮った近澤の言葉に眠気が吹き飛び、気恥ずかしさと嬉しさで顔が熱を持ったのがわかった。その顔を見られないように、勢いよくテーブルに額を打ち付ける。
「ナル」
「マジで言ってんの?」
テーブルに額を打ち付けたままの南斗はちらっと近澤を見遣り、『ヤベぇ、すげぇ嬉しい』と胸中で喜びを爆発させる。
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