Episode 29

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Episode 29

「ねぇ、母さん、いつ遊園地に行くの?」 「そうねぇ」 美しいブロンドの女が微笑みかける場面から一転して、彼女が惨殺された現場に切り替わる。銃を手に血溜まりに佇んでいる男が振り返る。銃口を向けた男は、何を思ったのか傍にある窓を一瞥して銃を腰にしまう。 「問題。今宵の月の名は?」 「……ウルフムーン」 「正解。褒美に未来を賭けさせてやろう」 蛇のような舌先で上唇の端を舐めると、「裏が出から消えろ」とコインを宙高く投げた。血生臭い空気に舞いながら男の手の甲に落ちる瞬間…――。 「…っ」 近澤はひどくうなされて目を覚ました。汗を拭いもせず乱れた呼吸のまま飛び起きれば、雑居ビルの地下にある射撃場だった。その一室のソファで寝ていたことに胸を撫ぜ下ろす。額から流れる汗を手の甲で拭い、ぐったりとソファの背凭れに頭を乗せた。視界を占めるコンクリート打ちっぱなしの天井を腕で遮り、鼓動が落ち着くのを待つ。 (…Super Blood Wolf Moon) 一月に米国や欧州の一部で観測される皆既月食の名だ。近澤の母親は赤い月の夜に、クラブの化粧室で殺害された。スプリットタンの白人の男、宙を舞うコイン。同じ場面を繰り返し何万回と見てきた夢を深く眠ったことで、数ヶ月ぶりに見てしまった。 (……油断した) 英語で呟いて視界を塞いでいた腕を下ろすと、ソファに沈めていた身体を起した。 ローテーブルには分解したままの実銃。それは我妻の一件のときに呼び寄せたマリノアが持ってきたグロックだ。カスタムパーツを調整して組み立てたそのとき、ジーンズの尻ポケットで携帯電話が震えた。 「Hello」 非通知の電話に英語で出れば、「俺。ナルは傍にいる?」と梶井の声が聞こえた。 先日南斗と龍丸寺に行ったときに外で待っていたのは、梶井が電話を掛けてきたからだ。あのとき異母兄たちが束ねる組織の内情を探りに香港にいた梶井は、いま彼らを追って戻ってきている。 「本業の現場だ」と近澤はソファに座り直し長い足を組んで続ける。 「なぜ未然に防がなかった?半分流れている血に情でも湧いたのか」 「いや、誓ってそんな訳じゃ……っ」 「次はないと思え。いいな」 「……ごめん、ボス」 「すでにエスを通して琥流会には話をつけてある。俺たちが成り代わり奪い返すだけだ」 「莫大なカネを生むデータだぜ?よく納得したな」 「一部を円で…キャッシュで払えと言っておけ」 手筈は追って連絡する、と近澤は一方的に電話を切った。それをローテーブルに投げ捨て、ソファの背凭れに頭を乗せる。視界に広がる冷たい灰色の天井を数秒眺めてから、ゆっくりと身体を起す。近澤はローテーブルの銃を取ると、ソファから立ち上がった。 秋の高く澄み切った空の下、南斗は建設中の大規模マンションの現場にいた。 午前中の仕事を終えた昼休み。敷地内の公園予定地に仮置きされたベンチに座る南斗は、手製弁当を食べながらイヤホンで英会話を聞いていた。夏に定時制高校の英語の宿題を近澤に見てもらったことがきっかけになり、勉強するようになった。筆記は苦手だが、リスニング力は上達していた。いまでは簡単な日常会話程度なら聞き取れるようになった。 (…あんときの電話テツだろ) 自家製メンチカツをリスのように口いっぱいに頬張っている南斗は、イヤホンから流れる英会話で先日龍丸寺に行ったときのことを思い出していた。あのとき近澤は英語で電話に出た。先に行くように促される数秒程度しか相手との会話を聞いていないが、話している内容は聞き取れた。 (信用してるっついながらしてねぇじゃん) 「クソッ」吐き捨てて南斗は残りの弁当を掻き込む。 腹が満たされて苛立ちが落ち着いたのか南斗は、耳からイヤホンを引き抜いてベンチに寝転がる。頭の後ろで手を組んで空を見上げれば、青く高い空が視界に飛び込んできた。ぼんやりと雲を目で追いながら思う。 (……あの雲みてぇに…チカも行っちまうのかな?) 夜のバイトは近澤と梶井にとっても副業。いつかは本業に戻るだろう。それは何時なのだろうと思う。ふと南斗は自分が雇ってくれと頼んだばかりに、彼らを引き止めてしまったのではと考えが及ぶ。もしそうなら、祖母の『エメラルド婚式に外国船に乗って、エメラルドグリーンの海を見に行く』という夢を叶えてやれる資金を稼いだ時点で…―――。そこから先は考えたくないとばかりに南斗は手で視界を遮る。 「このままずっとチカのそばにいてぇ」 手で視界を遮断したまま、小さく声に乗せて呟けば胸が痛んだ。 「おーい、ナル!」 大声で呼ばれて腹筋を使って起き上がる。声が聞こえた方に顔を向ければ、公園予定地の入口で高志が手を振っていた。腰掛けているベンチから立ち上がり、「なに?」と声を張り上げる。 「お前に客!」高志は後ろにいる男に振り向いて二言三言話しをすると、こちらに片手を上げてどこかに行った。 「オッサン?」 スーツを着た長身の男が鬼崎だと気づいた南斗は、その場で歩み寄ってくるのを待つ。 すぐに広い歩幅で目の前にやってきた鬼崎は、「休憩中にすみません」と詫びて頭を下げた。 「ま、座んなよ」 促してベンチに腰掛けた南斗は続けて言う。 「ここの現場に俺がいるって良くわかったな」 「うちのフロントが、このマンションに絡んでいるので……」 失礼します、と鬼崎は南斗の隣に腰を下ろす。 「へー。で、どうしたんだよ?」 「先日龍丸寺でお会いしたときに」 言葉を区切り鬼崎はスーツのジャケットに手を滑り込ませる。内ポケットから封筒を取り出すと、それを南斗に差し向けながら続けた。 「お渡しする事ができなかった、松下さんからの預かり物です」 「なに?」 「星の家の鍵です」 「え、まだあの家あんのかよ?もう売っぱらちまったと思って……」 「南斗さんの隠れ家だと言われて売らずに。亡くなる前に管理人を雇われていたようで、いまその人間が家を管理しています。先日お会いする三日前に見に行ったところ、いつでも使っていただけるようになってます」 「そっか。ありがとな」 「あの…南斗さん」 「ん?」 「どのようなお考えで、あの男と一緒におられるのかわかりませんが…あの男は危険です」 「そんな男が何度も助けるかよ」 「いえ、お互いにとって危険という意味です」 「え、意味わかん……」 「私はこれで」 遮るように言葉を被せた鬼崎はベンチから立ち上がると、南斗に会釈して背を向けた。 南斗は引き止める言葉さえも浮かばず、先程と同じ広い歩幅で公園予定地の入口の方へと向かう鬼崎を何も言わずに見送る。 (どういう意味だよ?オッサンのアレ) 机に肘を付いて窓の外を眺めていた南斗は前へと向き直る。 いつものように定時よりも一時間早く仕事を上がり、定時制高校に来ていた。 黒板に向かいチョークを走らせているのは、英語担当で担任の常山だ。帰国子女の彼から南斗は英語が上達する方法を伝授された。 教室には南斗を含め生徒は二十人。定時制ということもあり年齢にはバラつきがある。席は指定されておらず、それぞれ自分が決めた指定席で授業を受けている。 グランド側の窓際一番後ろの席に座る南斗は、教科書やノートを広げている机に肘を付いて耳を傾けていた。しかし途中から昼間鬼崎に言われた事を思い出し、上の空で授業を聞いていた。 (お互いにとって危険っつうことは、チカにとっても俺は危険…?) いや、ねぇし、と南斗は胸中で否定する。 殺しを本業としている近澤に脅威をもたらすほどの存在ではない。その前にカタギだ。 「……危険」 机に肘を付いたままの南斗は、教室の天井を仰いで零す。そのままの姿勢で宙に視線を彷徨わせながら、鬼崎の言葉に含まれた真意を考える。 (…弱点。俺がチカの…いやいや、それはねぇだろ) ふと脳裏に浮かんだ違う意味での危険を、またも南斗は否定する。 (チカの弱点なんて猫舌くれぇじゃねぇの?) 南斗は近澤が猫舌だと気づいてから、自分が食事当番のときは少し冷ましてから出している。しかし、今朝は淹れたコーヒーを冷まさず朝食に出してしまい火傷させてしまった。 (チカでも油断することあんだな) 今朝の近澤の顔を思い出して、悪戯っぽい笑みを含む。 南斗は上の空だった英語の授業に向き合おうと、教卓の前に立っている常山に視線をやる。が、徐々に常山の英語朗読が心地良くなり、ゆらゆらと船を漕ぎ始める。完全に落ちる寸前でガクっと手から顎を滑らせて目を覚ませば、常山の顔が視界に飛び込んできた。椅子から転げ落ちそうな勢いで驚けば、常山は叱責せずに笑いかけてきた。 「仕事で疲れてるのはわかるが、せっかく来てるんだからちゃんとしろ」 「…スミマセン」 「次聞いてなかったら単位やらないぞ」 常山は悪魔のような笑みを口端に含むと、黒板の方へと貫禄のある歩き方で戻って行った。 授業を再開した常山に舌打ちすれば、斜め前の席に座る年上の女子生徒に、「どんまい」と小声で励まされた。 「サンキュ」 小声で返して微笑んだ南斗は、シャーペンを取り黒板に綴られる英文をノートに書き写していく。そしてまた退屈を感じ始めたそのとき、隠すように教科書とノートの間に挟んでいる携帯電話にメールが届いていることに気づいた。常山の動向を気にしながら、さっと指先で画面を操作してメールを開けば近澤からだった。 <いま学校の前にいる。授業を抜けて来られるか?ミナト> 南斗が習字を教えたあの日から、彼の呼び方がナルからミナトへと代わっていた。 文面を一読したのも一瞬、窓の外に視線を投げる。すると、グラウンドを囲む壁の外側に路肩に寄せて止めたバイクに跨ったままの男が見えた。こちら側から顔までははっきりとわからなかったが近澤だった。 南斗は近澤に借りたままの腕時計を一瞥してから、黒板の隅に書かれている今日の時間割を見る。ざっと頭で残りの他教科単位を計算する。早退しても大丈夫だとわかると、<あと三分で終わる>と返信して携帯電話を作業服の胸ポケットに押し込んだ。 常山を気にしながら机に広げている教科書やノートを閉じる。それを重ねて整えたところで、授業終了のチャイムが鳴った。その瞬間、勢いよく椅子から立ち上がった南斗は常山に向かって声を張る。 「ツネ、店の応援に呼ばれたから帰るわ」 咄嗟に家庭環境を知る常山に嘘をついて、教室裏のロッカーに教材を投げ入れる。そして、そのまま常山の許可をもらわずに教室を飛び出した。
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