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Episode 31
(あんとき絶対なんかあったはずだ)
南斗はペントハウスのシャワールームにいた。
近澤に渡されたボディバッグとアタッシュケースを、高級ホテルの一室で中国人の男と交換してから三日。部屋を出た直後に聞いたガラスが割れる音と争うような物音、緊迫した何かが起こったはずだ。そして今までの報酬より桁が違ったことも気になっていた。
しかし、テレビや新聞で一切報じられていないばかりか、SNSにも情報が流れていない。いつまで経っても報道されない事から、確かに聞いたと思っていた物騒な音は思い込みなのかと南斗は思い始める。けれど、そう簡単に引っ掛かっている疑問は解消されず、モヤモヤが残る。
「あー クソッ!」
イラついて思いっきり横の壁を殴ると、腰の高さにあるシャワーの蛇口を捻った。頭上のシャワーヘッドから少し熱めの湯が噴出す。苛立ちのままに髪を乱雑に洗って、洗い流せば目の前の鏡に映る自分と目が合った。
「…っ」
ふと右側首筋の近澤に噛まれた場所に目が止まる。カサブタになる度に掻き毟っていた傷痕が薄くなりかけていた。触れようとした手をすぐに引っ込めて後ろに振り返る。シャワールームの外に耳をすませてから、鏡に向き直る。
「チカ、まだ帰って来こねぇよな?」
鏡に映る自分に語りかければ、心に潜むもうひとりの自分に、『やるならいまじゃねぇ?』と耳元で囁かれたような気がした。ある理由から意識して触ることを禁じていた傷痕に触れる。その瞬間思い返さないようにしていた、噛み付かれたあの日の光景が鮮明に蘇った。あのとき感じた全身に波紋のように広がっていく甘い疼きを、もう一度味わいたくなり鏡に手を付いて、もう片方を男根に伸ばす。包み込むように筋張った竿を握れば、尿道から粘着質な先走りが零れた。
「…っ」
親指の腹を亀頭に添えるように竿を握っている南斗は、躊躇いがちに緩く手を動かし始める。完全に勃起した男根の先端から溢れる先走りが手を上下に動かす度に、粘ついた音を立てる。その淫靡な水音が、近澤に思いを馳せながら自慰をしているという罪悪感を増幅させていく。次の瞬間、鏡に付いていた手でシャワーの蛇口を捻る。頭上から降り注ぐ強い水圧の湯が床を飛び跳ねる音で、雑音を振り払い行為に集中する。
「は…」
南斗は自立して立っているのが辛くなり、男根を握ったまま横の壁に背中を預ける。そのままズルズルと滑り落ち、床にしゃがむように尻を付いて手を動かす。男根を擦る速度に強弱の刺激を与えながら、立てている足の膝に肘を付いている手の指先を噛む。
「あ…っ」
親指の先をはんでいる南斗の唇の隙間から、吐息が漏れる。硬く筋張り先走りを滴らせる男根を扱きながら南斗は思う。自分は近澤を抱きたいのか、それとも抱かれたいのか。どちらなのだろうと。
「ん…はぁ…っ」
透明の粘液で滑らないように握っている男根の摩擦を、徐々に早めて射精感を高めていく。立てている足先を打つシャワーの音が、秘密とばかりに南斗の半開きの唇から零れる吐息と男根を擦る音が混じるそばから打ち消して行く。
「―――……ッ!!」
次の瞬間、南斗は勢いよく性を放出する。自慰自体久しぶりだったことから、何度も打ち寄せる快楽の波を追いやる事ができずに達してしまった。けれど、あのときまでとはいかないが、また甘い痺れを感じることが出来た。
「…っ」
乱れた呼吸もそのままに南斗は手の甲で顎に飛沫した白濁を拭う。すっと興奮が消え、空虚感に襲われる寸前で、耳に戻ってきたシャワーの音で我に返る。床に手を付いて立ち上がったその瞬間、
「ミナト、電話だ」
言葉と同時、背後のドアが開く。
咄嗟に頭上から降り注ぐシャワーの雨に入り、動揺を殺しながら振り返る。
「なななに…?」
声が上擦り平静を装うことに失敗した南斗は、羞恥心から鏡の方へと振り返る。
一瞬で気づいたらしい近澤との間に何とも言えない空気が漂うとしていたそのとき、南斗は後ろから抱きしめられる。驚きすぎて声も出せずに振り返れば、不意打ちでキスされた拍子に何かに気づいたものの、近澤の舌先を口腔に招いていた。南斗も近澤の口腔に舌を侵入させ、互いに頬の内側を舌先で擽り撫でる。
キスをしながら身体の向きを変えた南斗は近澤と向き合う。身長差があり顔を上向ける姿勢で舌を絡めている南斗がシャワーの湯に溺れそうになっているのを察したかのように、近澤は唇を合わせたままシャワーを止める。
どちらともなく唇を離せば、視線がぶつかり絡み合ったのも束の間。次の瞬間には何も言わずに互いの熱を求め出していた。南斗が近澤の濡れたジーンズのバックルに手を掛ければ、近澤もまた熱を帯びた南斗の男根に手を伸ばす。
「…はっ」
鏡に背中を預けている南斗は与えられる刺激に吐息を零しながら、下着の上から取り出した手の中の近澤の男根を擦る。彼の好む速度を探りながら、手を上下に動かす。
「はぁ…チカ…っ」
「ん?」
「あっ…ん…」
狭いシャワールームを埋め尽くしていく南斗の切ない吐息と、互いの男根から溢れる蜜の音が響く。その卑猥な水音が徐々に激しさを増し、ほんの僅かに残っていた理性が吹っ飛ぶ。まるで獣のように欲望だけを追求し合う。
唇を触れ合わせずに舌先だけで唾液を転がすように撫で合い、そして唇に軽く触れては離れるキスを繰り返す。それじゃ物足りなくて、もっと欲しくて、少し大きく口を開いて噛み付くように唇を貪る。真っ赤な舌先で口腔の柔らかな皮膚を擽り、歯茎を這うようになぞり歯を舐める。角度を変えてキスをしながら、互いの硬く筋張っている男根に刺激を与える。
「ンッ…」
近澤に探り当てられた性感を巧みに愛撫されて、南斗の近澤の男根を扱く手の動きが鈍くなる。唇を離せば身体を反転させられ、鏡の方を向かされる。甘美な快楽で思考が融けかけている南斗は主導権を奪われたことに抗う事もなく、淫らな顔をした自分が映る鏡に両手を付いたのも一瞬、後ろから腰を掴まれる。
「あ……!」
南斗はアナルではなく、睾丸とアナルの奥まったところにある蟻の門渡りに男根を射し込まれる。すでに蜜でぬめりを帯びている近澤の男根が柔らかい皮膚に添わせ、絶妙な腰使いで責め立ててくる。
「…ッあ……っはぁ…」
未開の快感に思わず声を上げる。
「っん…チカは……」
「いまはこれで…いい…」
身体を気遣うように耳元で囁かれた近澤の言葉に胸が熱くなる。
足を開いて立っている南斗はアナルに挿入している感触になるよう、少し足を閉じて鏡に付いている両手を片方外して自分の下腹部に手を伸ばす。掬い上げるように陰嚢の付け根部分から一緒に男根を持ち上げれば、近澤の腰使いが一気に加速した。
「っ…ん」
南斗の後ろからリズミカルなピストン運動を繰り返す近澤が射精感を高めていく。
まるで挿入されているかのような錯覚に陥る。過呼吸気味に喘ぐ南斗の唇から飲み込めない唾液が滴になり、濡れた床の水溜りに混じる。鏡に映る淫らに喘ぐ自分から顔を背け、まだこの快楽を手放したくなくて絶頂の波を遣り過ごそうとするが、
「―――ッあ」
我慢できずに性を解き放ってしまった。その瞬間、蟻の門渡りを責め立てていた近澤の男根が抜き取られると同時に腰を掴んでいた手が離れていった。
シャワールームに立ち込める二人分の雄の香り。濃厚な匂いに空虚感を感じる前に消し去ろうとシャワーに手を伸ばす。次の瞬間、倦怠感からフラつければ、後ろから腰を掬い上げるように抱きとめられた。
「…サンキュ」
Tシャツにスウェットパンツというラフな格好でソファベッドに座る南斗は、背凭れに頭を載せて天井を仰いでいた。眺めているか、いないのかのような目で、二十分前のシャワールームでの行為を回想していた。挿入された訳ではないが、一線を越えたことに変わりはない。
ペントハウスの外で降りしきる雨の音がシャワーの音を連想させ、気まずさが更に募る。あの日のキスよりも至近距離で、近澤の熱に触れたことに後悔はない。その行為に互いの感情が一致していなくても構わない。
(いつもチカと何話してたっけ?)
何とも言えない沈黙の空気を壊したくて、会話のきっかけを探るものの話題が浮かばない。
「いつまでそうしてビールを抱いているつもりだ?」
南斗は両手で持っている缶ビールに視線を落としてから、声が聞こえた方へと顔を向ける。
近澤は開け放たれている内側に開く玄関ドアに凭れてビールを飲んでいた。
「よく降るな」
「台風が来てるからな。明日場合によっちゃ休みになるかも」
南斗は自分の手の温度ですっかり温くなったビールを一気に飲み干す。会話の勘を取り戻した南斗は、三日前から引っ掛かっている疑問をぶつけることにした。
「なぁ、テツの散歩長くねぇ?」
「気になるか」そう言ってから近澤は、ビール片手に三人掛けのソファに向かう。
「そりゃ気になんだろ?あのヘビ野郎に俺が拉致られてた日から帰ってきてねぇんだぜ」
南斗は正面にある三人掛けソファに、近澤が腰掛けるのを待ってから言った。
「あいつは本業の仕事で香港だ」
「え?」
「…なぁ、それって三日前の仕事と関係ある?」
「察しがいいな」
「いつもの仕事より報酬の桁が違ったのは、アンタらの本業だったってことかよ」
「俺たちの仕事は、あのバッグに入っていた品物を取り返すところまでだ」
「俺をクスリで眠らせたのは、俺にオイシイとこだけ持っていかせるためかよ」
「ミナトに仕事をさせるためだ」
「それならクスリ使わずに言えよ」
「話したら大人しくホテルで待っていたのか?」
「はっ。結局は口先だけかよ」
そう鼻先で笑ってから言った南斗は、近澤を眼光鋭く睨みつける。彼の本業の仕事柄そう簡単に他人を信用しないだろうと分かっていても、湧き上がる怒りを押さえられない。
「何が言いたい?」
「信用もしてねぇクセに…言ってんじゃねぇよ!」
語気を荒げて握り潰した缶ビールを近澤に向かって投げつける。そしてソファベッドから勢いよく立ち上がると、肘置きに引っ掛けていたスウェットパーカーを掴み取り、そのままペントハウスを飛び出した。
土砂降りの雨の中を、傘も差さずに非常階段の方へと走る。
「明日休みだろう?受付頼むな」
「休みなら五時半にマサさんから電話掛かってくっからヨロシク」
「え、ここにか?」
「緊急連絡先だからな」
「おい、そんな話聞いてないぞ」
「現場で事故ったときの連絡先も兼ねてっから。ばあちゃんに心配かけたくねぇし」
カルテの棚に凭れて椅子に座る南斗は、受付内の柱時計に視線を投げる。
夜の二時。外では相変わらず雨が降り続いている。ペントハウスを飛び出した南斗が桐原病院に来たのは、いまから二時間前になる。雨に打たれてずぶ濡れでやってきた南斗に呆れながらも迎え入れた桐原は、風呂に入るように勧めて衣類を洗濯乾燥してやった。
「あのふたりと喧嘩したんだろ?」
ガラス戸の受付カウンター前の椅子に座る桐原は、カウンターに肘を掛けて塩大福を食べている。
南斗は事務机の反対側にいる桐原に言う。
「何でわかんだよ」
「お前は昔っから喧嘩か風邪引くとウチに来るからな」
桐原は指に付いた粉を払って、和皿に乗っている栗饅頭を摘む。
「診るのがメガネの仕事だろ」
ここに来る途中でスウェットパンツに入っていた小銭で買ってきた饅頭を食べる桐原を眺めながら、彼の自宅冷蔵庫から勝手に持ってきた炭酸飲料を煽る。
「メンタルまでは診てやれないぞ。俺の専門は外科だからな」
「あの医者気取りのクセにオールマイティじゃねぇのな」
「一回五千万でカウンセリングしてやろうか?」
「メガネに話して解決すりゃ、今頃ここはビルかもな」
「仲直りしたいなら早く謝った方がいいぞ」
「チカが悪くてもかよ」
「チカ?あ、あぁ~あの男前か。あいつカタギじゃないだろ」
「知らねぇよ」
「なんであいつらとツルんでるのか知らないが…やめとけ」
「どっちだよ。てか、メガネもオッサンと同じ事言うんだな」
「おっさん?」
「前にメガネが治療してやったオッサン」
一呼吸置いて南斗は続けて言う。
「アンタらがどう思うと…チカといるとラクなんだよ」
「俺の家族の事を知っても驚きも怖がりもしねぇし。口先だけの同情や慰めも言わねぇし」
「素でいられる相手か。それなら仲直りしないとな」
「メガネに言われなくてもするに決まってんだろッ」
少し語気を荒げて南斗は椅子から立ち上がる。
「帰るのか」
「こんな雨の中、帰るかよ」
完全に自分が悪いと思いながらも、まだ近澤に対する怒りが燻っている。天候を言い訳に留まる事を決めた南斗は、その場で飲みかけの炭酸飲料を一気に煽ってから受付から出た。
診察室や処置室などのドアが並んでいる反対側には木枠の窓が連なり、激しい雨風に打たれガタガタと震えている。南斗は窓の外を一瞥すると、昔から使っている板張りの廊下の先にある病室へと向かった。
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