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Episode 35
――二週間後。
金曜の夜十時。南斗の副業最後の日を迎える。航空便ではなく船便で発送された荷物が、なかなか受け取り場所に届かず日数が掛かってしまったのだ。そのおかげで南斗は近澤と穏やかな時間を過ごす事が出来た。しかし、今夜の仕事を終えれば、近澤は数日後には日本を発つ。彼が運転する大型アメリカンバイクの後ろに乗る南斗は、腰に回している腕に力を入れる。
バイクはアジア系外国人が多く暮す街の繁華街の前を通り過ぎ、毒々しい原色の照明に照らされた看板が並ぶ大通りを抜け、淫靡な空気が漂う店がひしめき合う路地に入る。老舗のブティックホテルや性癖に特化したホテルが乱立する場所にある雑居ビルの前で、やっとバイクは止まった。
近澤がバイクに跨ったままエンジンを切ると、南斗はタンデムシートから飛び降りた。その場でフルフェイスのヘルメットを脱いで、軽く頭を振り髪に風を通す。それをバイクに跨ったまま同型のヘルメットを脱いだ近澤に差し出せば、交換とばかりにツバ付きのニット帽子を渡された。
「できるだけ目深に被って…」
近澤は、南斗が装着しているネックウォーマーを視線で指してから続ける。
「それを目元まで引き上げて顔がわからないようにしてくれ」
「めちゃ怪しく…」
そう言いかけて南斗は近澤と交わした約束を思い出して、彼に促されたままにツバ付きのニット帽子を目深に被り、ネックウォーマーを目元まで引き上げた。
南斗はマンションを出る前に近澤から荷物を受け取る相手は、国内外の裏社会と関わっている人物だと教えられた。そして、その間マンションで待つか、同行するかの二つの選択を提示され、即答で後者を選んだ。すると指示に従う事を約束させられたのだ。
「いいか。ここを出るまで喋るなよ」
近澤は念を押すように言って、ヘルメットをハンドルに引っ掛けてバイクから降りた。灰色の雑居ビルを見上げてから周辺の様子を窺うと、近澤は雑居ビルの入口へと向かった。
南斗は自分の怪しげな格好をバイクのミラーで一瞥してから、先を行く近澤の背中を追う。
(…まだポチがいたあのビルの方がマシだな)
コンクリート打ちっぱなしの雑居ビルにエレベーターはなく、階段の踊り場に設置されている照明を頼りに階段を上る。剥き出しの蛍光灯に群がる虫に眉を顰めれば、先を行く近澤が何かを思い出したかのように足を止めて振り返った。
怪訝そうに見上げたそのとき、あっと思う間もなく近澤の片腕が肩に回り引き寄せられる。
「店に着いたら俺の後ろから出るな」
耳元で囁いて離れた近澤に頷けば、彼は再び階段を上がり始めた。足音を立てずに階段を上る近澤の背中に向けていた視線をクラックが入った壁に向けて、南斗も足を進める。
(すげぇ老朽化してんな。耐震大丈夫なのかよ?このビル)
職業柄建物の構造を気にしながら階段を上っていた次の瞬間、蛍光灯が不気味に点滅する階で足を止めた近澤に気付かずにぶつかる。振り向いた近澤に顔の前に手を立てて謝る仕草をすれば、左側のドアを目配せだけで「ここだ」と教えられた。
近澤は、何も表記のない無機質なドア横のカメラ付きインターホンを押した。
インターホン越しに聞こえた言葉は、先日梶井に電話で話しかけられた言葉と同じだった。背を屈めてインターホンに向かって話す近澤を眺めていて、ふと昔祖父が見ていたアクション映画の俳優が話していた広東語だと気付いた。
次の瞬間、ドアの内側から鍵の開錠音が聞こえた。
近澤は後ろにいる南斗に振り向きもせずに、変わったドアノブを握り見た目よりも重厚なドアを開けて先に入る。続けて南斗も店内に入り、分厚いドアを閉めた。そして視界に飛び込んできた店内の風景に思わず声を上げそうになり、南斗は咄嗟にネックウォーマー越しに手で口を押さえて近澤の後ろに隠れる。
(な、なんだアレ…)
口を押さえたままの南斗は少し背伸びをして近澤の肩越しに、もう一度店内に目を遣る。
アンティークの受付カウンターらしい上に、グロテスクなオブジェと一緒に人体の一部をホルマリン漬けにした瓶が並べられていたのだ。何の前置きもなく唐突に醜悪な造形を目にすれば、驚いて当然だ。
近澤の方に目を向ければ感情が全く読み取れない顔で、受付カウンター内にいる真っ赤なチャイナ服に身を包み、同系色の口紅を塗ったマダム風の女と広東語で話していた。
「相変わらず美しい顔ね。ゼヴ」
「早く荷物を出してくれ」
「後ろのボウヤは新入りくんかしら?」
「聞こえなかったのか」
「素っ気無い態度も相変わらずでゾクゾクしちゃう」
フフフっと女は妖艶に笑う。
南斗は二人が何を話しているのかわからず、近澤の後ろから室内を見回す。女を取り囲むように配置されている、天井から床まである木製の収納棚のような引き出しの大きさが異なるアンティーク家具。その中央には厳重に梱包された荷物が山済みにされている。グロテスクな品以外にも古い陶器の壷などもあった。骨董品を主に扱う店らしい。
近澤は、肩紐が付いた黒い円筒状のケースを女から受け取ると、南斗に振り返った。
「待たせたな。帰ろう」
南斗は広東語で声を掛けられて何を言われたのか分からなかった。けれど、近澤が促すように身体の向きをドアの方に向けてくれたことで、言葉の意味を察して頷いた。
尋常ではない数の鍵が取り付けられているドアのノブに手を掛けたそのとき、その腕を真横から掴まれる。驚いて振り向けば、女が目の前に立っていた。気配を全く感じさせなかった女に唖然として掴まれたままの手を解くこともできずにいると、
「お家で食べてね」
そう女は英語で言って、茶色い紙袋を押し付けてきた。反射的に受け取ってしまった紙袋は、ほんのりと温かく甘い香りがした。ぷっくりとした真っ赤な唇を引き上げて微笑んだ女に釣られて、思わず英語で礼を言って店を出る。
南斗を先に行かせた近澤は鋭い目で、ドア横に立ち見送る女を一瞥して店を出た。
ふたりは雑居ビルの外へと出た。
約束を破り物まで受け取った事に気付いていない南斗は、外に出てすぐの場所で立ち止まる。何も言わず先に大型のアメリカンバイクの方に向かう近澤を目で追いながら、息苦しさを感じていたネックウォーマーを目元から顎下まで引き下ろす。南斗は街の淀んだ空気で深呼吸してから、近澤に歩み寄った。
「持ってろ」
近澤は肩に掛けていた黒い筒状のケースを南斗に渡す。
厳重に封がされているケースは思っていたよりも重量があった。いつも通り届ける品の中身を聞かされていない南斗は、さっきまでいた店の雰囲気から何が入っているのか気になったものの、聞かずにケースを肩に背負う。
「このまま渡しに行く?」
「いや、届けるのは明日だ」
そう言いながら近澤は黒いボディのバイクに跨り、フルフェイスのヘルメットを被る。そして左側のハンドルにあるクラッチレバーを握り、エンジンを始動させた。唸りを上げたエンジン音が周囲に響く。
南斗がヘルメットを被りタンデムシートに跨ると、近澤はすぐにバイクを発進させた。
二人が乗ったバイクはマンションへと向かう。
「スラングは学校で教えてくれないのか」
ベッドの背凭れに並ぶクッションに凭れて洋書を読んでいた近澤は、ベッドの足元に寝転がり映画を見ている南斗に聞かれた俳優の台詞を教えてから聞いた。
二人は寝室の高い天井に設置されているプロジェクターがベッドの足元側の壁に投影する、海外制作のアクション映画を字幕非表示で観ていた。といっても、鑑賞しているのは、自室があるにも関わらず近澤の部屋にいる南斗だけだ。
「ツネ…英語の教師は授業で教えてぇみたいだけどダメらしいぜ」
「店の手伝いで活かせてるのか?」
「ちとだけな」
「ばあちゃんが…俺がバイリンガルになったっつって驚いてた」
ベッドに頬杖を付いている南斗は得意げに笑う。
「良かったな」
片足の膝を立ててベッドに座る近澤は、膝で広げている洋書に視線を戻した。
それ以上互いに何も話さず、俳優の声と効果音だけが部屋に響く。
しばらくそれぞれに時間を過ごしていると、予定調和のストーリーに飽きたらしい南斗が近澤の方に振り返った。
「なぁ、あの店って骨董屋?」
「外国人だけを相手にしている骨董専門のセカンドポストだ」
客はイカレた奴しかいない、と続けて近澤は洋書を閉じる。
一般的に知られている機関や個人経営のセカンドポストは主に郵便物を取り扱っている。しかし、近澤が連れて行った場所は、主に国内外の外国人だけを相手にしている。利用者が正規の手順を踏まずに販売購入した骨董を取り扱うセカンドポストだ。複雑なシステムを持ち、独自ルートを使い輸出入している。営んでいるのは裏の世界で「赤いマダム」の通称で呼ばれている女で、梶井とも昔からの知り合いだ。近澤は店に出向く前に、南斗に裏の世界に関わっている女とだけ話し、店のことは何も教えていなかった。
「ミナト、あの女に帰り際に押し付けられた紙袋の中身は見たか?」
あのとき近澤は南斗に女が接触するのを避けられたが、自分が下手に動けば店の後ろで控えている女の手下連中と一戦交えかねないと、咄嗟の判断で手を出さなかったのだ。
「紙袋……あ!」
ベッドの足元で寝転がっていた南斗は、約束を破ったことに気付いて勢いよく上体を起す。
「わりぃ」
「気にするな。で、中身は見たのか?」
「見てねぇけど…なんか焼菓子みてぇな甘い匂いがした」
「甘い?」
そう聞き返した瞬間、近澤は女からの殺しの依頼だと察した。そして南斗が女から紙袋を受け取った際に礼を言った事から、知らず依頼を受けていた事に胸中でため息を零す。
「え…なんかヤバかった?」
「いや…」
言葉と同時、南斗をベッドに押し倒す。脚を割り覆い被さるように口付ける。唇を割って舌を差し入れながら、スウェットの裾から脇腹を撫でるように手を差し入れた。その手で熱い肌を撫ぜながら服をたくし上げていく。その間も南斗の口腔を舌で犯している近澤は、背中に腕を回してきた南斗に悟らせずに、どう動くか考えていた。
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