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「女がズボンを履くのは社会参画で、男がスカートを履くのは個人の趣味だなんて言っている内は、ジェンダーなんて無くならない」
そうベッドの上で訳知り顔に言っていた彼女は、ウェディングドレスを着て、幸せそうに記念写真を撮っていた。
つくづく賢い女性だ、と思う。
そういう賢くて狡いところが、この上無く魅力的だったなぁ、とぼんやり思う。
新宿にあるバー「ライツヴィル」は、大学時代からの行きつけの店だ。カウンター席と、テーブル席。穴蔵なみたいな店は、十人も入ればいっぱいになってしまう。
カウンターの中に陣取るマスターは、ちょっと不思議な人で、日によって男の格好をしたり女の格好をしたりすることで有名だった。
どちらの格好も妙に似合っていて、男の格好をした時は男装の麗人にも見えたし、女の格好をした時は歌舞伎の女形みたいな色気が漂っていて、マスターの性別については客たちの間でちょっとした論争になっていた。顔立ちはくせの無いあっさりとしたもので、それがいかにも中性的な雰囲気をかき立てて、マスターの性別を不明にさせるのに一役買っている。ハスキーボイスは、声の高い男とも、声の低い女とも取れたし――けれど、何より肝心なのは誰も本気でマスターの性別を当てようだとかしたりはしないことだった。店に集う客たちにとって、マスターの性別というのはちょっとした余興であり、客たち自身もまた、性別という概念を微妙に踏み外している者たちばかりだったからだ。
私をこの店に連れてきたのは、当時付き合っていた社会人の「彼女」で、その人と別れてからも、この店に通う習慣だけは残った。
その「彼女」と言えば、二十五歳を過ぎたあたりから「どうしても家庭が欲しい」と言い張って、同じ会社で働いていた年上の男と結婚し、今は臨み通りに専業主婦なんぞやっているらしい。
ちょっと驚いたけれど、まぁ、よくあることだ。特に私の場合、付き合っている相手がセクシャリティごと鞍替えをするというのは、結構にある経験だ。今日だって、そうだったのだから。
「それにしたって体の関係のある女を結婚式に招待するっていうのは、どういう心理なんだろうね?」
入場。
誓いのキス。
披露宴にキャンドルサービス。
ケーキ入刀。
お色直しに、友人たちからのメッセージ。
両親への手紙。
お見送り。
引き出物の袋をぶら下げたまま入ってきた私を見て、バーのマスターは呆れた顔をした。
今日のマスターは男の格好をしている。三つ揃いのスーツは品があって、宝塚の男役みたいな艶めかしさがあった。こういう格好をしていると、私はこの人は男性ホルモンを注射している女なんじゃないかと思う。けれど、女の格好をして――黒い着物に、金色の帯なんて締めているのを見ると、女性ホルモンを打った男なのかなと思ったりもする。
――実は双子で、日替わりで店に出ていたりして。
そんな益体の無いことを考えている私に向かって、マスターは言う。
「それに出席するあんたの神経も不思議だけどね」
「せっかく呼ばれたんだからさぁ。ウェディングドレス姿、綺麗だったよ」
「ウェディングドレス」
鼻で笑ってマスターは袖口のボタンを緩めた。その様子が恐ろしいぐらい艶めかしい。
「どうせヴァージンでも無いくせにヴァージンロード歩いて、キリスト教徒でも無いくせに神父に愛を誓ったんでしょ」
「あれって、なんなんだろうねぇ。だからって神式って感じでも無いんだよ。新郎も新婦も、実家は浄土真宗らしいから」
「親鸞上人にでも仏前で報告すりゃ良いのに。念仏唱えてさ」
「結婚式で悟ってちゃしょうがないでしょ。いいじゃない。女の子の夢でしょ、白いドレス。可愛かったよ」
私の言葉に、マスターは窺うような目をして訊いた。
「あんたもウェディングドレス着たいの?」
「いや、別に。それを着たいって言っている女の子を愛でるのが好きなの、私は」
「相変わらずの性癖だね、あんた」
「相変わらずだねぇ、困ったことに」
「本当に困ってる?」
「いや、全然」
「だろうね」
お代わりのウィスキーを口に含んで笑う。
どうにも自分が一般的にいう「女」という概念に当てはまらないらしい、ということを知ったのは高校時代に初めて付き合った男子と初体験を終えた後だった。
行為を終えた後「抱かれる」というのが、どうにも私にはしっくり来なかった。
その時は互いに童貞と処女だったし、行為のぎこちなさや物慣れなさから来ているのかと考えていたのだが、何度か回数を重ねていく内に違和感は決定的なものになった。
最初はもしかしたら自分は不感性なのかも知れない、と思ったがそういうことでは無いらしいというのも行為の最中に分かるようになって来た。
私は「抱かれる」のではなく、「抱く」のが好きなのだ。喘がされるより、喘がせたい。私の手で剥き出しにされた快感に身悶えながら泣き続ける相手をずっと眺めていたい。男の一物に貫かれているより、そちらの方がよっぽど感じるし、イッてしまう。結局、初めて付き合った男とは、私のその気質のせいで、だんだん歯車が外れるように関係がぎこちなくなって別れてしまった。それから何人か男と付き合ったのだが、どの男も行為に積極的なのを最初は喜ぶくせに私が本気で――相手をよがらせて泣くほどに感じさせたいのだと察知すると、本気の拒絶を見せるようになった。
どうにも一般的な男にとって忘我の快感というのは「抱かれる」女のものであって、「抱く」側の男が感じるものではないという意識があるらしい――と知ったのはその時だ。
若い私は、そういう男たちが持つ無意識の共通認識に対して憤慨した。
男が女にするのは良くて、女が男にするのがいかんとは何事か。
性差別だ、と本気で怒り心頭した。
噛み合わない性的嗜好にうんざりして、大学二年生の時に私は男と付き合うのを辞めた。
セックスをすることで、却ってストレスが溜まって欲求不満になるなんて、私はどこか異常なんじゃないだろうかと本気で考えたりもしたものだ。
そんな悩みが弾け飛んだのは、大学三年のある日。恋人と別れたばかりだという女友達の泣き言を聞いている時だった。アパートの一室で、口当たりの良い甘い酒ばかりを二人で飲みながら、私たちは相当に酔っぱらっていた。
「全然好きになって貰えなかった」
顔をぐしゃぐしゃにして、声を詰まらせて、みっともないぐらい泣きながら女友達は言った。
「重たいって言われた。私は好きなのに、好きじゃないって言われた。セックスも得意じゃないけど頑張ったのに、全然気持ち良くないって。下手くそだって、不感性だって。私、どっか変なのかな。アソコの形が変だって言われた」
産婦人科に行った方が良いのかな、でも恥ずかしくって医者に行けない、だなんて言うものだから、私は相当に酔っぱらった頭でこんな提案をしていた。
「それじゃ、私のと比べてみる?」
相手も相当アルコールが回っていたから、「しよう、比べよう」とべろべろのまま服に手をかけた。お互いに素っ裸になって、胸の形から乳暈の色を比べて、股を開いて性器まで見せ合った。
なんだ、綺麗じゃん。ほら、色だってピンク色で。可愛い、もう堅くなってきた。全然、不感症なんかじゃないでしょ。だって、こんなに濡れてるんだし、ぐずぐずだし。その男が下手くそだっただけだよ。だってこんなに感じやすくて可愛い。
可愛い、可愛い、可愛い。
その言葉を何度口にしたことだろう。
気が付けば素っ裸で、女友達の股間に顔を埋めていた。生臭い匂いを嗅ぎながら、舌を使って柔らかな肉芽を弄くり、とろみのある液体をこぼす女陰を指でかき回し続けた。
がくがくと体を震わせて、「あぁ」とか「うぅ」とか言いながら、崩れるように気絶した女友達の太股に頬をすり付けながら、私も声に出来ないぐらいに感極まって絶頂した。
コペルニクス的転換。
太陽が地球の周りを回っているのではない、地球が太陽の周りを回っているのだ。突然の真理――私の常識――の逆転に、私は興奮した。
セックスは、男とでなくたって出来るのだ。
男が抱かせてくれないのなら、抱かせてくれる奴を抱けば良い。思う存分。ただそれだけの話。
私にその気付きを与えた女友達とは、その夜から、なんとなく疎遠になってしまった。酩酊していたとはいえ、お互いに記憶を失うタイプで無かったし、けれど素面の時に正面切って問いただせるような類の経験では無かったから、要するに恥ずかしかったし嫌だったし気まずかったのだろう。仕方がない。卒業するのと同時に同級生の男と籍を入れ、相手の田舎にくっついて東京からも離れてしまった。
一方、私は出会い系サイトを通じて知り合った年上の女と付き合い始めた。「ライツヴィル」を教えてくれたのも、その人だ。
彼女は曰く「生粋のレズ」で、そちらに目覚めたばかりの私に、何くれと親切にしてくれた。私の女とのセックスの基礎は、その人が作ったと言って良いかも知れない。私を新宿まで連れて行ってくれたのもその人で、ガイドブックに載っていないようなレズバーや穴場のホテルなんかも教えてくれた。
「本当にタチの悪い素人だよ、あんたは」
ほとんど侮蔑の口調でマスターが言うのに、私はにこりと笑って肩を竦める。
出会った時にも、マスターは同じ台詞を口にした。
その時のマスターはきりりとした濃紺の着物に髪を結い上げた女装姿で、流し目には凄みのような色気があったのをよく覚えている。
――あんたみたいなタチの悪い素人が一番嫌いだよ。
私を連れてきた彼女は「成り立て」なんだから仕方がないだろうと私を庇ってくれさえした。しかし、私の方はマスターが何を言いたいのかよく分かっていた。
そうだ、私は単なる素人だ。どころかレズやゲイを物珍しさや嫌悪で以て差別意識を丸出しにする人たちよりも、もっと性質が悪いものなのかも知れない。
私が好んで女と寝ている理由は、ただ一つ。
好みのセックスが出来るからなのだ。
バイセクシャルなのか、と聞かれると首を傾げる。
男の身体にも、女の身体にも、私はそれほど欲情したことが無いからだ。
私が欲情するのは、誰にも愛されていないと絶望に陥る奴が、私の一時の――戯れの――愛撫で感じ入ってめちゃくちゃに乱れて崩れるその瞬間なのだ。自信無げに俯く項にはいつだって吸ついてやりたいし、泣いているのならばいつまでも付き添って側にいて抱き締めてあやしてやりたい。けれど、それが「その相手」で無いと駄目なのかと問われればそんなことは無い。
男だろうと女だろうと。アスカだろうがユウキだろうがリサだろうとカズトだろうが。
誰であっても同じなのだ、私にとっては。
私の愛撫で感じている、私の可愛い子であれば。誰でも良い。
私のそれは多分、愛とは言えないのだろう。独善的で偏執した性欲を、恋愛という隠れ蓑を使って発散しているだけだ。
セクシャリティについて悩んだことなど一度も無いし、身体と心の違和感について考えたことも無い。それでも世間一般から見れば「レズビアン」に分類され、そうして生きているのだから、なんとは無しに嘘を吐いているような、皆を騙しているような悪い気がしないでもない。私の見た目がどちらかといえば中性的で、それほど見られない顔でも無いというところが幸いした。お陰で相手に困ったことは無い。
こんな私でも、何人かとは本気で交際なんてものもしてみた。
けれど大抵、振られるのは私の方だった。
彼女たちは口を揃えて言う。
「私じゃなくても良いんでしょ」
「あんたといると駄目になる」
「何を考えているのか分からなくて怖い」
さすがにそんなことが立て続くと私の方も落ち込んだ。何回か酒を飲みながらここで愚痴を言ったことさえある。マスターはそんな私に対して、懇々と説教をくれた。
「あんたのそれは愛じゃなくて、性欲でしょ。生活に性欲なんて邪魔なだけなんだから、ちゃんと分けておきなさい」
そして伝手をたどって、女専門の性風俗の店を紹介してくれた。
タチの悪い素人と私を呼ぶくせに、そうして世話を焼いてくれるところなど見ると、私はやっぱりマスターは女なんじゃないのかと思ったりもする。
その「3月ウサギ」という名前の、女性専門風俗は私の性にとても合った。
それから昼は派遣仕事で事務をして、夜はその風俗でキャストとして働くようになった。
今日の結婚式に私を呼んだ彼女だって、その客だった。
というより、現在も客だ。
私が今日払ったご祝儀は、彼女が予め用意していたものだし、結婚式に出席していた時間は、分単位で後からちゃんと請求が行く仕組みになっている。
たぶん、結婚してからも彼女は私を指名してくれるつもりなのだろう。
なにせ「趣味を通して知り合った友人」として、新郎に紹介までされた。凄い度胸だと思うし、周到な布石だとも思う。女同士の不貞を自然に伺うような思考回路の持ち主は、まだこの国の一般男子には少ない。
悪い男になった気分――。
黙り込んだ私にさして言葉をかけることもなく、マスターはカウンターの内側の細々とした仕事に戻っていった。
こういう距離感が有り難い。
あくまで、マスターとは「店主」と「客」なのだと思い知らされてほっとする。
私がここに通い続ける理由は、それなのだ。
「3月ウサギ」での仕事は、とても私の性にあっていた。大概の客は、キャストのプロフィールや年齢なんかを呼んで、きちんと自分に合いそうな相手を指名してくる。私の客は「愛されたがり」「寂しがり」が圧倒的に多く、常連も固定客もすぐに出来た。迷子になっていた性欲のはけ口を見つけて私は爽快だった。おまけに金まで稼げる。しかし、三十歳を越えてようやく性欲にも落ち着きを見せ始めた頃になって私はふと考えることが増えたて来た。
いつまでも、このまま――タチの悪い素人――でいるわけにはいかない。そろそろ、何か――そう某かの人生の決断をしないといけないのではなかろうか、と。
長い間、派遣で仕事をして来た中小企業から正社員にならないかと誘いをかけられている。私が新卒と呼ばれる頃は、就職氷河期の真っ只中で、正規の職に就けた同期の方が少なかったのではないだろうかと思う。私は大学卒業の頃には既に「3月ウサギ」のキャストとして働き始めていたから、全うな職なんてむしろ就いたら窮屈で仕方がないし、派遣でそれなりに仕事が出来れば良いと思いながら働いてきた。それは根本的に今も変わっていない。
そんな私に正社員の話が来るのだから、なんというか世の中というのは本当に上手くいかない。
皮肉に満ちていて、痛々しい。
返事は保留にしているが、今月中に返事をするのが礼儀というものだろうし、筋だろう。それぐらい中途半端に生きている私にだって分かることだ。
ただ、正社員になるということは、おそらくこの精神的な性的欲求の充足を手放すことだ。
もちろん、永遠に「3月ウサギ」のキャストを続けることなんて出来ない。三十歳という年齢を越えた時から、私の客筋は固まってきていて、新規の客というのは少なくなってきていた。
とりあえず、今は引き出物のバームクーヘンを分け合って食べる相手が欲しい。
元来、真面目に物を考えることを苦手としている私は、そんなどうでも良いことを考えながらウィスキーのグラスを空けた。
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