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「俺、男の人が好きなんです」
どことなく茫洋とした口調で青年は呟いた。
私はそれに無造作に返す。
「知ってる」
備え付けの冷蔵庫は自動販売機を兼ねていて、外のコンビニで買えば百円未満で買えるだろうミネラル・ウォーターは一本二百円もする。それでも五〇〇ミリリットルのペットボトルを二本買った。
皿は無い。引き出物のバームクーヘンは、四角い箱の中で綺麗な円になったままで、私と青年はそれを手掴みで口の中に押し込んだ。びりびりになった包装紙が横に転がっている。
ストッキングを穿き直すのも面倒で、私は下着姿のまま――青年は半裸のまま、ベッドの上にめいめい楽な格好で座って、バームクーヘンを食べている。
滑稽だ。
この上無く滑稽だ。
「なんだって、こんなさぁ」
「二股をかけられてまして」
「はぁん」
よくある話だ。
男と女だろうと、男と男だろうと、女と女だろうとそれは変わらない。貞操観念のすりあわせ、というのはこれほど難しかったのかと思うぐらい、裏切る奴は平気で相手を裏切る。もう、あれはそういう生き物だと思うしかないのではないだろうか。パートナーという言葉を知っているが、理解はしていないし、そこに重きをおけない人間というのは必ず存在する。
別に悪いとは言わない。だって、私はそんな風に裏切られた女を、これまで何度も慰めながら抱いてきた。目の前の相手は――その例に入ることは無かったけれど。
あれは、ああいう脳の仕組みの生き物で、日本という文化圏の中では相当に生きにくいだろうなぁ、と余計なお世話でぼんやりと俯瞰する程度だ。そもそも恋人にも逃げられてばかりの私なんかより、彼らの方がよっぽど上等な人種だと思うのだけれど。
青年は目を伏せたまま、ぼそぼそと言う。バームクーヘンは、手の中でぐちゃぐちゃに崩れていた。
「別に、それが原因って訳じゃないけど――なんて言うのかな。これまでの、色々なことが浮かんで、しんどくなって」
「男運、悪いんだ」
「よく見えます?」
「全然」
抱かれる相手に私を選ぶ時点で、相当に不憫だ。雑に手で切り分けたバームクーヘンの欠片は、ぼろぼろとベッドの上に落ちて汚らしい。口の中は水分が抜けてパサパサで、先ほど飲んでいたアルコールのせいもあってか私はやたら喉が渇いた。
「女の人としたら、ちょっとは何か変わるかなって」
「そりゃあ、期待しすぎじゃない?」
「そうですか」
「そうだよ、たかがセックスでさ。生まれ変われるとでも思った?」
私の言葉に、青年は寂しげな顔をして言う。
「たかがセックスも出来なかった」
それは、まったくその通りだ。
私は青年を抱くことすら出来なかった。
私があのまま行為を続行しよう4とすれば、たぶん青年は拒まなかっただろう。
けれど、それは単なる暴力だ。
強姦だ。
セックスというのは、一番原始的な肉体的コミュニケーションだ。
そう考えると、今まで私がして来たことは――「抱いてきた」なんて言うのは、とても大袈裟な独りよがりの言い分なのかも知れない。というか、最初の目覚めた行為自体も強姦だったのだろうか。合意はあったが、私は途中で本気になって、相手は途中で我に返っていた。
あー、恥ずかしい。
性欲の発散のためのセックス。
他人を使った単なるオナニー行為。
思い上がりが恥ずかしくって、今度からどんな顔をすれば良いのか分からない。のたうち回りたくなるような自責の念に刈られながら私は青年に訊いた。
「女は全然ダメ?」
「ダメ。昔から男しか好きになったことが無かったし、それに」
「それに?」
切れた言葉を、なんとなく促す。
バームクーヘンは二分の一ぐらいに減っている。もののついでとばかりに、私はもう一つの――陶器の箱が入っている包装をびりびりと破くようにして開いた。
新郎新婦の写真入り。名前が書かれたティーカップのセット。
どうしろって言うんだよ、これ。
趣味悪、と呟く私の横で青年が呟くように言う。
「母が――兄と寝ているのを見てから、全然」
私は青年の方に視線を向けた。
「なに?」
青年はバームクーヘンの欠片を口の中にぽつぽつと押し込みながら言う。ほとんど独り言のような口調だった。
それが却って痛々しさを煽っている。
「兄は、父の方の連れ子だったんですけどね。俺は父と母の子どもで、父が再婚だったなんてそんなの全然知らなかったから。中学の時に父が死んで、しばらくして――真夜中に気が付いて吃驚して。俺は元から『そう』だったけど、それで余計に」
気持ちが悪い、と肺の中の空気を全て吐き出すように青年が言った。
「女が出てるAV観ても、気持ち悪くって、我慢出来なくて吐いちゃって。潔癖だって言われて、そういうのに誘われなくなったのは助かったけど、やっぱり『そう』なんじゃないかって噂もたてられたりして。そうなると、面白半分にやりたいとかいう奴が寄ってくるようになって来て」
気が付いたらこんなところにいた、とぽつりと青年が言う。
たったそれだけの言葉の向こうに、不幸な薄暗い人生の物語が見えるようだった。
それなのに青年は男が好きだ、と言う。元からそうだったのだと、そう言う。
女の私に「抱かれたい」だなんて頓狂な願いをして見せるぐらい追い詰められているくせに――それでも、まだ男が好きなのだと。
たかが、XとYの違い。
それが歯がゆくって仕方がない。
私が青年にかけてやれる言葉は何も無かった。他人の人生に中途半端に嘴を挟めるような真似が、こんな中途半端な――タチの悪い素人に出来るはずが無かった。ただ先ほどの恥ずかしさから、私は投げやりに言葉を紡ぐ。
「生まれ変わるとか、新しい自分とかさぁ。無理して試さなくたって良いんじゃないの?」
青年が無言で見返して来る。
「私もさぁ、女が好きな女だと思わないで育って来たけど、最初っから女が駄目だったのかって言うとそうでもないし。なんか悟りみたいにびびっと来る時があるけどさ、それって結局タイミングの問題で、気付かない自分に気付いただけでさ。結局、元の自分に戻っただけって言うか。最初っから自分は自分で変わらないんだよね」
「変わりませんか」
「少なくとも、セックスしていきなり女に目覚めました。男も女もOKです。世界が変わりましたーっ、てことにはならないと思うよ。特に君の場合はね。勝手なこと言うけど。そんなに簡単に新しい自分とコンニチハ出来てたら、誰も自己啓発もしないし、自分探しの旅になんて出ないじゃん。日本自転車で一周したりさぁ」
蕩々とそれらしい言葉を吐き出す私を見上げて、青年はぽつりと言う。
「あなたは」
「うん?」
「――あなたは、ずっと、変わらないんですか」
私は瞬きをする。
例えば、高校時代の初めて付き合った彼氏。彼と会えば、彼は私をなんと表するだろうか。そもそも、高校時代の彼氏の顔が遙かに霞んでいるので、私の方が思い出すのに苦労をしそうなのだけれど。
まぁ、でも。
「変わったとは言われるだろうね。変わったつもりは無いけれど」
それはきっと、私の知らない私に他人が気付いているだけの話なのだろう。
ジョハリの窓。
誰でも持っている自分自身のありきたりな側面だ。
それから、私と青年は当たり障りの無い話ばかりをした。
「ライツヴィル」のマスターの性別だとか――青年は「マスターは手術をした男だと思う」と言った――私が出席した結婚披露宴の様子だとか、その引き出物のセンスの悪さだとか。性癖について口を噤んでいるということは、果たして嘘を吐いたことになるのか――だってヘテロの奴らは自己紹介の時に、異性の好みをイチイチ申告したりしないじゃないか、お前は自慰のオカズまでカミングアウトするのかセクハラだろ、とか。
意味のあるようで無いようなそんな話ばかり。
バームクーヘンはいつの間にか無くなっていて、私たちは自然と連れ立ってホテルを出ていた。
薄暗い、白けた朝が広がる街の中へ。夜の魔法が解けて、ごみごみとした汚い現実と饐えた臭いが漂い――明け烏の鳴き声が聞こえる街の中へ。
趣味の悪い写真と名前入りのティーカップは、ラブホテルのゴミ箱に突っ込んで来た。あの客にどうしたのか聞かれたら、電車の中に置き忘れたとでも言うことにすることにしよう。ウェディングドレス姿のよく似合う、したたかな彼女。少なくとも、彼女が他の人間に知られていない一面を私は知っている。
くしゃくしゃになったストッキングは、丸めてパーティーバッグの中に突っ込んだ。
素足に履いた踵の高い靴は、履き心地がとても悪い。
ホテルの支払いは当たり前のように割り勘になって、自動ドアを出たところで私はおかしくなって笑い出した。青年が怪訝な顔をする。
「なんですか?」
「いや、今の私たちをみる奴がいたらさ。きっとセックスして来たんだって思うんだろうなと思って」
「ああ――」
青年も私の意図を汲んだように笑う。
実際、私と青年がしたのは愛撫とも呼べない微かな接触と、半裸でバームクーヘンを一緒に食べて、くだらない与太話をしただけ。
シーツのあちことに、あの黄色いバームクーヘンの食べカスが落ちていて、一体どんなプレイに興じたのか掃除の人間が首を傾げるかも知れない。
それともよくあることなのかも知れない。こんな新宿の暗がりのホテルでは。
「じゃあ」
「ええ」
ホテルの前で足を止めて、顔を見合わせる。なんとなく、この青年はもう「ライツヴィル」に来ることは無いのではないかと思った。
短い会話しかしていないから私の想像でしか無いからなんとも言えないけれど、抱えきれなくなった何かを吐き出す相手とした選んだ私と、何食わぬ顔で付き合いを続けることが出来るほどの神経が太い様にはとても見えなかった。そもそも、そんな開き直りが出来るのならば、私に声なんてかけて来なかっただろう。
私は青年を真っ正面から見つめて、微かな憐れみを覚える。
可哀想に。
女であれば。ただ、女でさえあれば、私は思う存分に相手を抱いてやることが出来たのに。否、私が。
――私が男でさえあれば。
たまらない衝動のようなものが胸の中にせり上がってきた。足を引こうとする青年の腕を掴む。
そのまま勢いに任せて、薄い唇に唇を押しつけた。
キスと呼ぶにはあまりにも稚拙な、粘膜の接触。
呆けたような顔をした青年に向かって、私は囁くように言った。
「知ってるだろうけど、私は随分と行儀の悪い素人でさ」
まるで口説き文句。
いや、私は間違いなく口説いていた。
抱くことすら出来なかったこの青年を、熱烈に、愛しいとそう感じていた。
抱くことの出来なかった、愛されたがりの寂しい子。
「男に生まれなくって、今日は生まれて一番悔しかった。なんで私は女なんだろうね。せめて君がバイセクシュアルなら、抱かれてあげても良かったのに。それが凄く悔しいし、悲しいし、そのせいで、たぶん忘れられないよ、君のこと――」
手に入らないものに、人は夢を抱く。
それを恐らく恋と呼ぶのではないだろうか。
さしずめ、この青年は私にとってのファム・ファタールだ。身も心も手に入れることの出来なかった可愛い子。
だからこそ一生、忘れない。
折りにつけて思い出す。
抱いた女のことなんてすぐに忘れるのに、この青年は――抱くことが出来なかったというただそれだけの理由で私の中に一生の痕を残す。
「そう思ってるし、これから先も思い続ける。まぁ、嘘かも知れないけど。この日本の、世界の中に、君のことを熱烈に思い続ける奴がいるっていることを――気が向いたら忘れないでいるといい。悪い気分じゃないでしょう」
幸せになりなよ、可愛い人。
短く息を飲む音がする。
突き放すように肩を押して距離を取ると、私はそのまま青年のことを振り返ることなく歩き始めた。
始発はまだ動いていない。タクシーを拾って帰って、シャワーを浴びて眠ってしまおう。深く深く眠って、それからいつものように一日を始めるのだ。二度と交差することの無い人生を思う。
私は、この日のために生きていたのかも知れない。
そんならしくも無いことを思いながら、私は客待ちのタクシーを捕まえて、靴を脱ぎ捨てて足の裏を揉む。
「3月ウサギ」のキャストはいずれ辞めることになるかも知れない。
それでも、私は一夜限りの「私の可愛い子」を探して歩くのを辞められやしないだろう。私の愛なのか性欲なのかよくわからないそれは、たぶん歪んでいて他人にぶつけるにはあんまりにも重たくて汚いのだ。
だから、あちこちで愛情を分散して流れるように生きていく。
きっと私はタチの悪い素人で一生を終えるに違いない。
誰も私の横に立たせることもしないまま。
たかがXとYと――それから、それにまつわる何か。それに振り回される私たちっていうのは、なんて矮小で滑稽な――。
――可愛い子だったなぁ。
瞼の裏に、痩せた猫のような青年を思い描くと、ふっと唇から笑みがこぼれた。
シートに凭れて深く息を吸う。微かな排気ガスの苦いに臭いの中、甘ったるいバームクーヘンの後味と、触れた唇のかさついた感触だけがいつまでも残っていた。
END
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