悪魔のファンド

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 麗華と万福がオフィスに踏みこむと、栄雅は優雅にコーヒーを入れていた。 「そろそろ到着するころだと思って、最高級のマンデリンを入れていたところだ。いい香りだろ?」栄雅は恍惚とした表情で言った。 「パパ、コーヒーはいいから三兆円を返してよ。あれがないと運用計画が狂っちゃう。財前ホールディングスが倒産してもいいわけ?」麗華が詰め寄った。 「実は、ピカソとフェルメールの真作が何点か見つかってね。まとまったお金が必要になったのだ。つまらない連中に買われたくない。少し余りそうだから、それは退職金としていただいておくよ。麗華には神谷万福がいる。もう大丈夫だ。引きこもりも克服したし、三兆円などあっという間に回復できるよ」栄雅は悪びれた様子もなく淡々と語った。 「退職ってどういうこと!だいたい名ばかりのCEOに支払う退職金なんかない!すぐに戻しなさい!父親のくせに娘を路頭に迷わせるつもりなの?」麗華の堪忍袋の緒が切れた。  栄雅はふっと笑うと、コーヒーをひとくち飲み、衝撃の告白を始めた。 「麗華、君は実の娘ではないのだよ。赤ん坊のときに私の画廊の前に捨てられていたのだ。子どもを養う金銭的な余裕なんかなかったから、警察に届けようと思ったのだけど、君の荷物を調べていたら手紙が見つかってね。気が変わった。読んで驚いたよ。この子は資産運用の天才の血を引いている、きっと大金を稼ぐから育ててやってほしいと書いてあった。お先真っ暗だったから、君に賭けてみることにした。オンラインで投資のゲームやレッスン、セミナーを片端から受けさせたよ」栄雅はまたコーヒーをひとくちすすった。 「予想以上だった。十歳になったころはもういっぱしのディーラーだった。私がなけなしの十万円を与えたら、君はすぐに百万円に増やしてくれた。私が褒めると、君はうれしそうに笑って、ますます投資にのめり込んだ。私の打ち出の小槌だった。だがもう十分だ。君は大人になったし、生活の面倒を見てくれる家政婦もいる。私はさっき退職すると言ったが、正確には引退だ。君の父親役を引退する。退職金をもらう権利があると思わないか?それともいままでの君への投資を回収すると言った方が正確かな?」  麗華はうつむいたまま肩をふるわせていた。なんというひどい仕打ちだろうか。キリストを裏切ったユダがかすんでしまうほどだ。軽井沢の邸宅は、麗華を軟禁して稼がせるための牢獄だったのだ。麗華を利用して巨万の富を築き、用済みになったから縁を切るだと。そんな非道が許されるはずはない。神をも畏れぬ暴挙だ。財前栄雅は人として壊れている。万福は十字を切り「主よ、お許しください」とつぶやき、栄雅の顔面に強烈な一撃をお見舞いした。 「ぐああ!」栄雅が床でのたうち回った。麗華は唖然として万福を見つめた。 「財前さん、あなたを横領と特別背任の罪で刑事告発します。麗華様を傷つけたことを刑務所で反省し、悔い改めてください。麗華様、よろしいですね?」万福の勢いに圧倒され、麗華はこくりとうなずいた。  オフィスの窓から栄雅を乗せたパトカーが遠ざかっていくのが見えた。育ての親である栄雅を犯罪者にしたことで麗華を二重に傷つけたのではないかと思い、万福の心は重かった。三兆円が栄雅の個人口座に手つかずのまま残っていたことだけが救いだった。 「ストックとボンドを車に放置してきちゃった。きっとキュィン、キュィンと鳴いているよ」麗華は唯一の家族を心配した。 「おわびにハムをご馳走しましょうか?」 「そうしよう」麗華は笑った。「ねえ、万福…これからどうするの?財前ホールディングスは辞めちゃうのでしょ?」 「えっ?辞めませんよ、僕は」 「本当に?」 「もちろんです。せっかく試験にパスしましたし、麗華様の『改造計画』は始まったばかりですし」 「よかった!じゃあさ、CEOをやってよ。私は人付き合いが苦手だから。それから改造計画はもういい。面倒だ」 「CEOは麗華様がやるべきです。麗華様はこれからたくさんの人と出会い、幸せになるのです。その手伝いをするために、僕は神に遣わされたのだと思います。本当のご両親も探しましょうね」 「万福が私を幸せに…そ、それもいいかも…」麗華は赤くなった。 「お任せください。ところで、このオフィスは美術館にしませんか?必要ありませんよね?」 「税金対策になるし、いいかも!そうだ、万福、次の仕事のネタは見つけたの?」 「あっ…」 「あんたね、今日、半日棒に振っていくら儲け損なったと思っているの!」いつもの麗華が戻ってきた。 「あっ、思い出しました!大手総合家電メーカーの北芝電機に海外の投資ファンドが株式公開買い付け(TOB)を申し入れるみたいです。買収額は3兆円とか。廃炉ビジネスは何十年も多額の利益が見込めます」 「ひゃあ、三兆円かあ!絶対仕留めるぞ!成功報酬をふんだくってやる!」 「で、でも、どうやって…」 「それを考えるのがあんたの仕事でしょうが!契約を取って来られなかったら婿にしてやらない!」 「えっ、婿?」 「あれっ、私を幸せにしてくれるって言ったじゃない?あっ、でもエッチなことしたら散弾銃だからね!」 「ええっ!結婚するならそれはセットでは…」 「だって私はまだ十八だよ。結婚前にいろんな人と出会ってたくさん恋愛しなきゃ!万福はおじさんだからウェイティングリストの後ろの方だなあ」麗華が意地悪そうに笑った 「麗華様、悪徳な商売と恋愛は、阻止しますからね!」  麗華は万福の説教を無視してパーキングスペースに駐車した「マイバッハ」に駆けて行った。「やれやれ」。万福がスマートキーでエンジンをかけ、後部座席の窓を下ろすと、ストックとボンドがものすごい勢いで飛び出してきた。麗華とじゃれあい、歩道を激しく転げ回った。サラリーマンやOLが大きなドーベルマンに驚き、逃げ回った。そのうち警察が来るだろう。だが、万福は止められなかった。天使のように笑い転げる麗華をずっと見ていたかった。さっきまで取り憑いていた悪魔はきっと茜色の光に溶かされたのだろう。丸の内に黄昏が迫っていた。                               (完)
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