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迷いなく新雪に足跡をつけて行く〔新井さん〕。
手袋をしているのに上着のポケットに手を突っ込んでるのは、寒いからなのか、ただの癖なのか。姿勢が良いから不良っぽくは見えない。
けど――
「つかれた…」
不意に口から漏れた言葉が、〔新井さん〕の足を止めた。
それまで振り返ることも、立ち止まることもせず、速足に雪道を進んでいたその足が、ようやく。
「同意見です…」
「え」
振り向いた〔新井さん〕は、白い息を短い周期で吐き出していた。
「じゃあ、なんで休まなかったの? 」
近くの木に寄りかかるようにして座る〔新井さん〕を見ながら、何となく違和感を覚える。
「だって、止まったら寒いじゃないですか」
――〔新井さん〕って、こんな人だったっけ……?
最初はもっと、冷たい感じの人だと思ってて、近寄りにくくて、声をかけるのも怖くて。
人間じゃない可能性すら考えてたのに、当の本人と言えば、耳が冷えたからと、両手で覆って温めている。
……どういう人なんだろ。
「――ああ、すみません」
急にそんな声が聞こえて、思考を中断。〔新井さん〕を見ると、いつの間にか立ち上がっていて、いくらか息も整ってきている様子。
「目的地、まだ伝えてませんでしたね」
「…あぁ、はい」
待ってました。
目的地を知れば、少しは〔新井さん〕さんの意図がつかめるかもしれない。訳も分からずついていくよりは気も楽だろうし。
そう思って、若干の期待を含んで次の言葉を待つ。
――が。
「あの、期待してるところ申し訳ないんですが、大した情報は与えられません」
冷えた耳から入ったのは、期待の眼差しに気づいて、言い訳をするような、そんな前置き。つい、「なんで!? 」と抗議の声を上げると、〔新井さん〕は背を向け、また歩き出す。
「百聞は一見に如かず、と言うでしょう。…きっとあなたは、言っただけでは信じないでしょうし」
「どういうこと…? 」
「…あまり、焦らないでくださいね。もう少しですから」
淡々と言葉を並べながら、先へ、先へと行ってしまう。私はただ急いでその背中を追いかける。
「それと、またしても言い忘れるところでしたが、目的地は私の故郷ですよ」
「…こきょう?なんで」
「だから、見ればわかりますって」
〔新井さん〕は悪戯をした子供をたしなめるような、どこか優しい口調でそう言った。
「――ここです」
〔新井さん〕が立ち止まったので、つられて自分も立ち止まる。
辺りを見回してみると、周囲一面、深い森。
おかしい。
さっきまで雪道を歩いてきたはずなのに、振り返って見ても奥にあるのは木ばかりで雪のゆの字もない。
それに……
〔新井さん〕の故郷だと言うそこには、見る限り建物どころか人さえいない。
「本当に、ここなの…? 」
口をついて出たその問いに、〔新井さん〕は背を向けたまま答える。
「ええ、ここです。よく頑張りましたね、お疲れ様です」
「…ん、んん……」
なんか腑に落ちない。あと、さっきから〔新井さん〕の子ども扱いみたいな態度がちょっと気になる……。
「じゃあ、どこに住んで――」
問い詰めてやろうと思って言いかけた言葉は、不意に頭をよぎった疑問によって遮られた。
その疑問は。
「私が何故、『家』と言わずに『故郷』と言ったのか」
〔新井さん〕は私の疑問を察して言った。
心を読まれたような気がして、どきりとする。
――そう、『故郷』というのは、自分の生まれ育った場所のこと。だけど、普通は今住んでいる場所のことをそうは称さない。『家』と言う。
言い間違いでなければ、その言い方ではまるで、家が無いみたいだ。
あ、でも、〔新井さん〕は、なにもここに住んでいるとは一言も言ってないのか。私が勘違いしていただけで、本当は家が別にあって、故郷はここ――
いや、そしたら〔新井さん〕は森で生まれたことに……。
「まあ、もう少し歩きましょうか。追って説明もするので」
「…はい」
「説明する」と言われたら、その説明が終わるまで質問してはいけない。私は口を閉じる。
正直、一番納得がいかないのは、さっき『見ればわかる』とか言ってたくせに見ても何もわからないこと。でも、さっきまでのやり取りでも、上手くかわされて結局欲しい答えは返って来なかった。だから、とりあえずあっちから答えをもらうまで黙っておこう。口を閉じたのにはそういう考えもある。
そんな感じで、また、黙って後ろをついていく。
……ああ、なんか、私このまま森の奥で〔新井さん〕に殺されるような気がしてきた。いや、凍死しようとしてたのをわざわざ助けてくれたのに、それはないか。でも、なんか、不安を誘うような空気がある。
……歩けば歩くほど、森は深く、暗くなり、それと同時に不安も雪のように積もっていく。「追って説明する」と言ったはずなのに、〔新井さん〕は何も言わない。
もはや縋るように〔新井さん〕を追うけど、いくら速く歩いても追いつけない気がして、つい走ってしまう。
……私はいつの間にか全力で走っていて、気がついた頃には〔新井さん〕の背中に突進していた。
「――っ、どうしたんですか? 」
前によろけ、一瞬だけ眉を寄せた〔新井さん〕が言う。やっと振り返ってくれたことへの安心感と、どう説明、もとい言い訳をするかという焦りと羞恥で、私はまごつく。
そんな私の内心も知らないで。
「――もしかして、怖くなりましたか」
〔新井さん〕はこんなことを言う。しかも真顔。いっそ小憎らしいにやけ顔でも見せてくれれば少しは気が楽なのに。
「手、つなぎますか? 」
そして畳みかけるように、文面だけ見れば優しすぎる一言。しかしその両手はポケットでまだ眠っているし、なにより目が、『いらないと言いなさい』と言っていた。
……ので、混乱しているのもあってか、つい訊いてしまった。
「新井さんって、潔癖症なの」
――私の言葉に返事がくるまで、体感5秒。
「……何故、今のやり取りでそんな質問をしようと思ったのか、私は疑問でなりませんが、質問を質問で返すのはあまり好きではないので答えます」
そこで一度言葉を切り、白い息を一つ吐いてから、〔新井さん〕は続ける。
「汚れるのは好きではありませんが、潔癖症というほどではありません。つまり、私は普通です」
「ふつう……」
この人が言うとなんか違和感。
「それで、どうしてそんなことを? 」
もう、正直に言おう。
「だって、手、つなぎたくなさそうだったから…」
「つなぎたかったんですか? 」
「…い、いや、そういうわけじゃ」
「なら私が潔癖症でも、そうでなくてもいいじゃないですか。というか結局、さっきの体当たりは何だったんですか」
あ、なんていえば。
「え、えっと…別に、なんでもなくて……」
「嫌がらせという解釈でよろしいですか」
「待っ、違う! 」
ホントに違う。焦りが加速する。
「じゃあ、何ですか」
――もう、言うしか……。
「……こ、怖くなって」
「やっぱりそうじゃないですか。まったく……」
呆れた様子でため息をつく〔新井さん〕。思えば私は、人のこんな顔ばかり見てきた気がする。
『また』、私は失望された。
私は、それだけ愚かで、無能な、ただ酸素を吸って二酸化炭素を吐くだけの存在だって、わかってる。
だからもう、いいんだ。
そう思っていられるから、私はいつも傷つかなかった。無表情でいられた。
――なのに。
目の前に見えたのは、手を差し伸べた〔新井さん〕で。
目線を少し逸らしながら、「最初からそう言えばいいのに」と呟く〔彼女〕が、どうしようもなく“救い”に見えて。
諦めていたはずなのに、〔彼女〕のその行為が、心の、深くて脆い部分に触れて、私の今までを否定した。
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