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「それどころではないだろう! 生身の自分の事を心配しなさいっ」
そうして桂樹の傍にしゃがみ込むと、腕や背中、脚に至るまで傷がないかを見聞し、ゆっくりと長い息を吐いた後、ゆるりと立ち尽くす女生徒を顧みた。
「作業中に声を掛けるなんて、なんて危ない事をするんです」
叱責と言うのに相応しい重たい声は、それだけ氷室が自分を心配してくれた証拠だった。それが素直に嬉しくて、腹の底がぎゅっと切なくなる。
怒られた女生徒はバツが悪そうに、謝る事もせず無言でその場を立ち去って行く。
「全く。君も、そんなに抱えなくて良いから。少しずつ危険の無いようにやりなさい」
呆れを含みながらも毅然と怒られて、それでも怒られている内容が優しいと気付く。
彼はこの大学図書資料館の司書。
「氷室さん」
「どうしました。やはり何処か痛めた?」
心配そうに覗き込んでくるその瞳は真っ直ぐで、深い色をしている。
自分の傍についた彼の左薬指には、結婚の証。
――それでも、この人が好きだ。
彼の瞳を覗く度、何度もそう確信する。
彼の傍に居続ける為なら、この想いを隠し通すことくらい出来る。
そうやって一年半も傍に居た。
ずっと見ていたのだ。この人を。
あの時からずっと。
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