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新しい住まいは長屋の一角。工場地帯のこの街には、この頃からモクモクと灰色の煙が空に舞っていた。初めは驚いて、高くまで煙を目で追った。そんな僕を、あの人はよく笑いながら撫でてくれた。
「びっくりするな。でも、時期に慣れるよ」
高鳴る音。またドキっとした。
この住まいでの特等席は、もちろんあの人の膝の上。好んで、そこに身を寄せた。胸に耳を当てて、あの人の音を側で聞いていたいから。
「舞の膝が好きなんやな」
父様や母様は、そう言って僕を揶揄う。そんな二人には、「にゃーーお」と鳴いて答えた。
あの人との思い出は他にも沢山ある。こっそりとお菓子を分け合って食べたこと。炬燵の中で戯れあって遊んだ事。ボール遊びをした事。数えていたら、きりがない。だけど、やっぱり胸の音を聞いている事が一番好きだった。今まで何人かの人間に出会ってきたが、こんな音は聴いた事がない。僕の胸を締め付ける心地良い波動。何が違うのか自分でもよく分からないけど、あの人は特別な音を放つ。いつしか、膝に座れない時でも、あの人の音に耳を傾けるようになっていた。
だけど、あの日。あの人の音が突然に変化を遂げてしまった。
ーーバタン。
部屋に大きく響いた物音。何事かと目を向けると、あの人が倒れていた。
『にゃあぁ! にゃあぁ!』
僕はガラス戸を叩きながら、必死に母様を呼んだ。母様は、ゆったりとした足音を鳴らしながら、呑気に部屋にやって来る。
『早く来て! 早く!』
やっと扉が開いた瞬間、
「舞!」
母様は血相を変えて、あの人に近寄った。直ぐに救急車を呼んで、あの人と母様は、病院に向かった。
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