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平安時代
月明かりの綺麗な夜。御目当ての相手に近づくと、障子紙から蝋燭の火の陰が浮かんでいた。
障子戸をそっと開き、隙間から中を覗くと、今日もご主人様は、真剣な目付きで和紙に向かっていた。
きっと和歌だろう。それが推測。ご主人様は今、あの女に夢中だ。あの女に贈る和歌を書いているに違いない。こんなワタシを差し置いて。
戸から、顔をひょっこり出した。でも、ご主人様の顔はまだ下を向いたまま。
ムッ。こっちに見向きもしない。
腹が立ってきた。
ワタシは地団駄を踏みながら、歩み寄った。
すると、ようやくこちらを向いた。
「おぉ、みやの。今日も来てくれたのか?」
ご主人様はそう言ってワタシを呼び寄せ、頭を優しく撫でてくれた。
「お前を待ってたぞ」
呑気な声。ワタシの気持ちも知らずに。でも、こうして触れられると、自然と怒りは収まってしまう。
ーーにゃあん。にゃあん。
ちゃんと愛らしく声を出して、ご主人様の手に頬擦りをした。
「ほっほっ。相変わらずだな。お前も」
ご主人様が、こんなワタシを好きなのは承知済み。生まれた時からずっと一緒。ご主人様の好きな猫を分かっているつもり。
存分に頬を擦った。嬉しそうなご主人様。
『このまま、あの心地よい特等席の。ご主人様の膝の上に乗りたい』
ワタシは、ご主人様の膝に手を掛けた。
でも、思うようにはいかなかった。
「待ってろ、みやの。手が空いたら相手をしてやるからな」
ご主人様は、ワタシの頬から手を離した。
この野郎。だったら、こっちだって。
ーーにゃあん。にゃあん。
さらに愛らしく鳴き、今度は体を擦り寄せた。
渾身の愛嬌。
『和歌なんて書いてないで、もっとワタシに構いなさいよ』
すると、ご主人様は根負けした。
「本当に困った猫だ。仕方ない。膝の上に来い」
ご主人様は自らの膝を叩いた。
ワタシは喜んで、膝の上に乗った。
『これ。これ。これよ。これなのよ。今日もこのまま、ぐっすり眠れそうだわ』
膝に体を預け、全身で体温を感じた。
「こんなに懐く猫は、中々おらぬぞ。お前は変わり者だ」
ご主人様は、ワタシの体を撫でながら満更でもなさそうだ。でも、わかってない。自分で自分の良さが分からないのは、まだまだね。
ワタシはそんな想いを乗せながら、ご主人様の目を見つめた。
誇らしげに笑い、ご主人様は上機嫌だ。
こんな笑顔のご主人様が、ワタシは好き。幸せな気持ちになる。
こうして頭を撫でられていると、さらに気持ち良くなり、ウトウトとしてきた。
目が重くなり、直ぐにでも眠りそうだった。
重くなった目で、ご主人様に視線を送った。
しかし、ご主人様の目が、もうワタシに向いていなかった。
視線の先は和歌だった。
『もしかして、ワタシを抱えながら、あの女に贈る歌を考えているのかしら?』
ワタシも和歌に目を向けた。その和歌には、和紙いっぱいに文字が書かれている。字が読めないから、何が書かれているのか解らない。だけど、心地良さが抜けていった。
『そんなにあの女のことが良いのかしら? 何が良いのか、さっぱりわからない。ワタシの方が綺麗で温かい髪を持っているっていうのに』
ーーにゃあ。にゃーん。
また、愛らしく声を出した。しかし、ご主人様はこっちを見なかった。和歌に夢中。ワタシのことなんて、知らんぷり。
怒った。ご主人様がこっちを見ないなら、ワタシにだって手段はある。
膝から飛び出し、勢いよく走った。
「こら、みやの」
ご主人様の声が聞こえた。でも、ワタシは止めない。
そのまま勢いよく和歌の上を駆け抜けて、踏みつけた。爪を立て、和紙が破れるように。
「こら、何する」
ご主人様は、ワタシに駆け寄ってきた。
ーーしゃー。
『あなたがこっちを見ないからいけないのよ。この分からずや』
ワタシは悪くない。絶対に止めない。
「どけ。退くんだ。みやの」
ご主人様が、ワタシを掴もうとする。
ワタシは、その手を掻い潜る。
『もう知らない。一度くらい、私に和歌を書いてくれたっていいじゃない。こんなにあなたを愛しているんだから』
ワタシは和紙の上を駆け回った。
「もう、止めるんだ」
聞いたことのないご主人様の怒声。
ーーイタイ。
その声と共に、体に強い衝撃が襲った。
宙に浮く体。ワタシを掴むその力は凄まじく、温もりは全く感じられなかった。
「出て行くんだ。みやの」
ご主人様はそう吐き捨てて、ワタシは外に出された。
『あのわからずや。こんなにワタシが好意を持っているというのに』
その夜はずっと、愚痴愚痴とご主人様の文句を繰り返した。しかし、すぐに熱が冷めた。
戸の隙間から見る、落ち込むご主人様の姿。それに悲しそうな声を聞いてしまった。
「せっかく、みやののために書いたのに」
胸が痛くなった。
とんでもないことをしてしまった・・・。
字が読めたら、こんな事にはならなかった。自分を恨んだ。
謝りたい。この想いを伝えたい。
ーーにゃぁん。にゃぁん。
ワタシは、ご主人様に向かっ
て、ずっと鳴き続けた。
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