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彼が自らの両親とやや不仲であり、正月であってもまず顔を合わせないというところだけは不安もあったが(何やら事情があったらしいが、春明が語りたがらないので突っ込んで尋ねたことはなかった)、それ以外は大きな問題もなく、幸せすぎるほど幸せな生活が続いたように思う。息子の秋留もやんちゃすぎるほど元気いっぱいにすくすくと育ってくれた。自分にとっても彼にとっても、何不自由ない幸福の日々が続いてきたし、これからもそうであるはずだと信じてきたというのに。
何故、こんなことになったのだろう。
どうして、今、春明は冷たい目で自分を見ているのだろう。
自分達を隔てるテーブルの上には、彼の名前が書かれた離婚届があるのだろう。
「……冗談にしては、面白くないんだけど」
私は、震える声で告げた。大きな声を出してはいけない。マンションの壁はさほど厚くないし、何より昼寝をしている秋留を起こしてはいけないからだ。
「私が、そういうジョークが一番嫌いなの知ってるでしょ。センスなさすぎ」
「冗談じゃない」
「だから、しつこいんだけど」
「好きな人ができた」
一瞬、何を言われたかわからなかった。は、っと開いた私の喉から、掠れたような奇妙な音が漏れ出した。なにそれ、意味わからない、と言おうとしたのだと思う。思う、と自分でもよくわかっていないのは、頭が真っ白になって束の間完全に思考が停止していたからだ。
「好きな人ができたんだ。君以外に」
まるで私に追い打ちをかけるように、私を苦しめたいとでも言うように彼は告げた。一瞬、くしゃりとその顔が苦しげに歪む。まるで、自分の方が被害者だとでも言うかのように。
「だから別れたい。それだけだ」
「……それこそ、冗談でもないとおかしいんだけど?」
演技にしては臭すぎる。そう自分でも感じるほど、カラカラに乾いた気持ち悪い声が出た。
「秋留は?……あの子、まだ五歳なんだけど?子供いるのに、他に好きな人ができたとか……普通ないでしょ、そういうの」
なくはない。ドラマや、それこそワイドショーで芸能人が不倫しただのどうだの、という話にはちっとも珍しいものではない。それこそ出産したばかりの奥さんをほったらかしにした旦那とか、妻がいる男とわかっていながら浮気して旅行をしていた奥さんの話だとか。子供がいようがいまいが、不倫をする人間にはなんら関係ない。むしろ、そういう足枷から解放されたかった、だなんて言い訳をして不倫を正当化する人間のなんと多いことだろう。
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