晴れ女ラプソディ

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「大丈夫よ。私、晴れ女なの」 そう彼女は言った。昼過ぎに降り出した雨はまだやむ気配がなく、予報では翌日まで続くということだった。店の壁に貼られた翌日の野外イベントのポスター。面白そうだから行ってみようかしらと言う彼女に、僕は天気の心配を口にした。そして彼女がそう言ったのだった。 「だから私が行けば絶対に雨はやむのよ」 僕はそれについて異論を唱えるつもりはなかった。そういうことを言うひとは今までにもいたし、ある種の信念のようなものが自然環境さえ変えてしまうことだって起こりうると僕は本気で思っていた。だからもしその前に彼女の雨にまつわる長い話を聞いていなかったなら、その晴れ女のくだりは穏やかに終了したに違いない。 「そうなんだ。それならきっと晴れるね」という感じで。 僕と彼女は赤坂見附駅近くの居酒屋のカウンターに並んで座っていた。赤坂の居酒屋といっても別段変わったところがあるわけではなく、その店が僕が今住んでいる西荻窪や、学生時代に暮らしていた新小岩にあったとしても何も違和感はない。木の貼られた床はところどころで軋む音を立て、壁紙は厨房の換気扇では吸いきれない串焼きの煙や、酒飲みが当たり前のように吸っていた時代からの煙草のヤニで、ゆっくりとその色調を変えてきたのだろう。使い込まれて座面の編み込みのところどころががほつれている椅子や、膨大な数のグラスや器が消えない染み跡を残していったテーブルを見れば、店ができてからだいぶ長い歳月を経ていることは明らかだ。それほど広くはない厨房の奥のほうで、老齢に近い店主が真剣な面持ちで何かの仕事をしている。手元は見えない。カウンターに近い焼き台では頭にタオルを巻いたひとの好さそうな青年が手際よく串を返している。そんな店だ。経年による店の摩耗とは対照的に全く不衛生な印象を受けないのは、その店主の実直そうなたたずまいと、細部まで行き届いた掃除によるものだろう。カウンター席の頭上の下がり壁に飾られている何枚かのサイン色紙はきっと、訪れる客のためではなくサインの主に対する義理立てのためだけに長い年月をその定位置から眺めてきたのだ。そしてその色紙の下あたりに並んで座っている僕と彼女の間はひとつ席が空いている。僕たちはたまたまその店のカウンターで隣り合わせただけだったからだ。 その日、仕事を終えて会社を出ようとしている僕を同僚が呼び止め、週末ということもあり、一杯飲むことになった。新卒で入社して8年目になる彼は、中途採用で3年前に入った僕の指導係的な立場だったが、年齢が同じということもあり、今では良き友人になっている。しかしそれが、僕が彼に対して複雑な感情を抱く要因になっているのも事実だった。この会社での経験に違いがあるとはいえ、同じ年の彼にどうしても追いつけないことに苛立ちをを感じ始めていたし、自分には何か大事なものが欠けているのではないかという漠然とした不安が日に日に増していた。そんな僕の状況にどこまで彼が気づいているのかはわからないが、その日に予定していた契約がキャンセルになり、だいぶ落ち込んでいた僕に気遣いをして誘ってくれたのだろう。場所はどこでもよかったが、男ふたりで気楽に飲むにはちょうどいいその店に入った。 「今日にも契約っていう予定だったのにひどい話だよ。旦那は子供の教育になんか興味なくて自分にまかせっきりだとか言ってたくせに、ここにきてその旦那が反対してるからって・・」 「まあ、よくある話さ。ほんとにそれが理由かどうかはわからないけどな」 僕たちは小中学生向けの学習教材を販売する会社で営業をしている。ウェブ授業プログラムの開発や学習塾の運営を軸にした事業拡大を進めている成長中の企業で、僕が入社したのも、そのための中途採用枠の拡大に乗じてのことだった。早く実績を上げ認めてもらおうと意気込んでの再出発だったが、職場に慣れるにつれ不満がつのるようになっていた。彼と酒を飲むと、きまって僕が愚痴を漏らし、彼はそれに理解を示し、ごく短めにアドバイスをくれる。 「そもそも商品開発に問題がある。価格設定も見直す時期に来てるし」 「たしかにそれは言えるな。まあ、いずれにしても今俺たちがやることは・・」 彼がそう言いかけたところで、携帯電話が鳴った。 「うちからだ」 そう言って彼は電話を持って席を立った。2年前に結婚した奥さんは今妊娠中で、あと2週間ほどで出産予定日だということだ。彼は着々と人生のステップを踏み進んでいる。 「悪いな、かみさん具合悪いみたいでさ。これで帰るわ。来たばっかりでほんと悪いな。俺の分、あとで払うから」 そう言いながら慌てて出ていく彼を見送ってしまうと、僕は少し居心地の悪い気分になってしまった。かみさん。彼はそう言っていた。僕が結婚したら相手のことをそう呼ぶだろうか。かみさん、女房、家内、嫁さん。どれもしっくりこなかった。そもそもこんな自信を持てない状態の自分が誰かの人生を背負えるはずもない。 同僚が出ていくのと入れ替わるように、3人組の客が店に入ってきた。空いているテーブルは無く、カウンター席だけがいくつか空いている。僕は近くにいた店員に声をかけ、自分がカウンター席に移ると申し出た。親切心もないわけではなかったが、ひとりで4人掛けの席を占領している状況が極めて居心地が悪いものになることは容易に想像できたからだった。僕は自分のカバンと飲み物のグラスを持ってカウンター席に移り、食べかけの料理の皿を店員が運んだ。同僚のグラスと皿は下げてもらった。そしてそのカウンター席のひとつ間を置いた席にいたのが彼女だったというわけだ。 椅子に座りながら、目が合った彼女に僕は軽く会釈をした。彼女の手元には串だけが何本か載った皿と、空になりかけたグラスがある。彼女も首を少しだけ傾けてわずかに微笑んだ。彼女はおそらく僕と同じくらいの年齢で、平均的な基準でいえば美人に属する。こういう種類の出会いを劇的なものにするかどうかはふたりの性質次第なのだろう。もしかしたら生涯の伴侶との出会いになるかもしれないし、ごく短い親密な時間を過ごすというストーリーも描くことができる。恋人のいない30歳の男が積極的な行動を起こしたところでなにも不思議はない状況だが、僕はそういうタイプではない。だからあの時彼女が無言のままだったとしたら、僕たちは1メートルほどの距離を隔ててひとりの時間を過ごし、そのままそれぞれの場所へ帰ることになったに違いない。軽い挨拶をして。 「雨、まだ降ってました?」 彼女はカウンターの中の店員にレモンサワーのおかわりを頼むと、僕にそう言った。 「あ、ええ、少し小降りにはなりましたけどまだ・・」 意味のある出会いへと大きく舵が切られた感じがした。服装を見る限りでは会社勤めのOLには見えない。麻の混じったような生地のざっくりとしたワンピース。首元には派手な色調のエスニック柄のスカーフを巻き、髪は短めで化粧はあまり濃くはない。おそらく服飾関係か、近くにあるテレビ局に出入りしている、いわゆるクリエイティブな職業の女性なのだろうと僕は想像した。こういう店のカウンターでひとりで飲んでいる姿に違和感はあったが、彼女との会話の始まりは間違いなく僕の妄想を膨らませた。しかしそれは、数分後には急速に萎んでいくことになる。 「雨降りって素敵よね」 その言葉から始まった彼女の雨に対する想いはとても長いもので、そして情熱的だった。しかし、無限に表現できるほどの雨の種類とそれが人間の情緒に与える芸術的刺激について、僕はその内容をほとんど理解できなかった。幼児期から現在に至るまでの雨にまつわる様々な体験と、その記憶に浸るとき彼女を支配する心の安寧についての解説から、彼女がかなりクセのある感覚の持ち主だと判断せざるをえなかった。そして雨の音と彼女の性欲との関係性の話は、僕の欲望を刺激するどころか逆に微かな恐怖すら覚えさせた。 「それほど雨が好きなのに晴れ女というのも、なんか不思議な感じですね」 彼女の話とそのキャラクターに圧倒されどう反応したらいいかわからなかった僕は、そう返すのが精いっぱいだった。しかしそれが彼女の更なる長い話のきっかけになる。 「あら、ちっとも不思議じゃないわ」 いわれのない中傷に反論するかのように彼女は語り始めた。 「お天気って誰が決めてると思う?もちろん人間じゃないでしょ。神様とか言わないで。じゃあ、太陽と雨雲、どっちだと思う?そう、太陽はいつだって同じにあそこあるわけでしょ。問題はその下に雨雲があるかどうか。つまり、雨が降るか降らないかというのは雨雲次第。わかる?ということはつまり、もし晴れて欲しければ雨雲がそこにいてもらったら困る。そうよね。だから雨雲にどいてくださいってお願いすることになる。で、ここで想像して欲しいんだけど、もしあなたが雨雲の立場ならどんな人のお願いだったら聴いてあげようと思う?そうね、雨雲の立場が難しければあなたはあなたのままでいいわ。人間のあなたのままで想像してみて。あなたにふたりの人が頼み事をしてきました。ひとりはね、あなたのことをすごく嫌ってて、あなたの顔を見るとウンザリしたような顔して溜め息をつく。周りの人にもあなたがどんな風に嫌な人かを愚痴って、出来ればあなたとなんか会いたくない、みたいな感じの人。もうひとりはその反対で、あなたに会うととっても嬉しそうで幸せそう。もしあなたの悪口とか言ってる人がいたら、あなたのことをかばって、あなたにどんな良いところがあるかを話してくれる、そんな人。さてあなたはどちらのお願いを聴いてあげますか?」 「そりゃ・・」 「雨雲だって同じよ」 彼女はそう締めくくると、満足そうに一度うなずいてからしばらくのあいだ黙って目を閉じていた。彼女が酔っているのか、一気にしゃべったことで疲れてしまったのか、それともこれが普通のことなのか、僕には判断ができない。 「なんにしてもあなたが今やるべきことは・・」 少しして目を開けた彼女がそう言いかけたとき、僕の携帯電話が鳴った。さっき帰った同僚からだ。今しがた女の子が生まれた。予定日よりだいぶ早かったが特に問題はない。さっき急に帰ってしまったこともあり、連絡をくれたということだった。僕はお祝いの言葉を言って電話を切った。彼も忙しそうだったし、隣の彼女は話を遮られたままだった。しかし彼女は頬杖をついて眠っていた。僕はその横顔を見ながら夜の海に降る雨のことを考え、その雨音を想像しながら男に抱かれている彼女を想う。彼女が耳飾りとスカーフを取り、ワンピースをゆっくりと脱ぐのを想像する。 時刻は11時を過ぎ、店の客も疎らになっていた。僕は深い眠りから彼女を起こし、ふたり分の会計を済ませ、足元のおぼつかない彼女を支えるように店を出た。雨はあがり、心地よい風が僕たちを包む。懐かしいような、少しわくわくするようなにおいの風だ。鋪道に敷き詰められた煉瓦色のブロックはたっぷりと雨を吸い込み色濃く光っている。終電に急ぐ足が小さなしぶきをたて、眠らない電飾がアスファルトに滲んでいる。僕は通りかかった空車に手を挙げた。彼女を乗せたタクシーが信号を左に曲がるのを見送ってしまうと、僕は少しだけ寂しい気持ちなった。彼女にはもう会うことはないのだろう。 「雷の音を聴きながら眠るとね、私は次の朝生まれ変わっているの」   彼女はそう言っていた。ふと見上げた空の雲の切れ間には真っ白な月がある。 僕は生まれたばかりの女の子の幸福を心から願った。
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