ミステリアスな神社「蚕の社」その2

1/1
前へ
/89ページ
次へ

ミステリアスな神社「蚕の社」その2

この日は太秦にある文化会館に用事があって出向いたのですが、行く前に周辺を散策しようと、蚕の社駅で電車を降りることにしていました。 駅のすぐそばにある大きな鳥居が目に入ります。その道から出発することに。実はあまり予備知識のないまま歩いていました。常夜燈には蚕養神社(こがいじんじゃ)と書いてあります。 49c94951-287a-44e0-b3b1-dfda79d298fb この時はまだ、駅名の蚕ノ社と関係があるとは深く考えていませんでした。 364a401a-df2f-4bc7-8641-51ed65a6c803 鳥居をくぐり、まっすぐ北に進んでみると、道が東西に横切っていました。西に30Mほどずれた場所にもう一つ鳥居を発見。 4dd493e0-787d-41e0-b965-08d76ca961a8 雰囲気が住まいの近くにある神社とそう変わりなく、さほど名所だとは思わず、気軽な気持ちでお詣りすることに。 ところが案内板によると、この神社の正式名称はなんと「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社」という、なんとも長い名前がついていました。地元の方からは「木嶋神社」と呼ばれているとのこと。そして、境内には養蚕を祀るまつる「養蚕神社」もあることから、「蚕ノ社」という異名があることが判りました。一つの神社に呼び名が四種類もあるとは驚きです。 それでも最初はごく普通の神社だという印象を持ちました。ですが、すぐにその考えは一変することになったのです。 dbb59fa2-661a-4e36-8539-9da9bacd7951 何人か、カメラを持った男性とすれ違いました。神社に参拝するというより、明らかに写真を撮りにきたという感じでした。 下記の写真は拝殿。57d5ad84-318f-472a-8694-c212c3e68935 こちらが本殿に当たる「木嶋坐天照御魂神社」です。創建年月日は不詳とありますが、続日本紀に記述がみられ、701年4月3日の条に神社名が記されているそうです。220f90a5-74d3-426d-8212-e7eed236719c 本殿の横には元糺の池「もとただすのいけ」という枯れた池がありました。竹垣の向こうにはなんとも不思議な鳥居と、組石の真ん中に神主さんが振る(ぬき)というものがささっていました。 71053e73-2326-49a5-bf18-deb8df4b876f 現在は池は枯れているうえに、柵がしてあり入れません。というより神秘的な雰囲気に近寄りがたい印象を持ちました。柵が高く、また神聖な場所だと感じて、近づけませんでした。フリー画像を添付します。 bd4b2876-a9f7-42f2-a533-0f83eeb1f3b8 元糺の池「もとただすのいけ」は、「正シクナス」「誤リヲナオス」の意味でこの神池は身滌(身に罪や穢れのある時に心身を清める)場所であるとのこと。 例祭は十月十。夏の土用の丑の日には下賀茂神社と同じく、「御手洗祭り(みたらしまつり)」といって、神池に手足をつけると、諸病にならないという俗信仰があるとのこと。   また、秦氏と加茂氏との深いつながりあり、千三百年ほど前は、この地は元糺の森ともよばれ、西方に山が近く扇状地にあるため、こんこんと湧き出た水による森が形成されていたようです。人々はこの地を「この嶋」と呼んだとありました。平安時代中期頃の泉に伴う石敷遺構が出土しているそうです。 組石を囲む三つの鳥居は、「三柱鳥居」といって鳥居を正三角形に組合わせた珍しい形体。宇宙の中心を現し、四方向からお参りできるとのこと。 現在の鳥居は1831年(天保2年)に修復されたものが残っています。江戸後期家定の時代にあたります。一節にはキリスト教の遺物ではないかと謂れもあるそうですが、定かではありません。e84b0674-0511-439c-b283-cb53442c72c1  さて、本殿の横には「養蚕神社」がありました。残念ながら写真を撮り損ねています。この嵯峨野一帯は古墳時代(1500年前)に朝鮮半島から渡来してきた人々の陶器、養蚕、機織などすぐれた技術を持った秦氏の勢力範囲だったことから、その生業である養蚕、染色、機織りの繁栄を祈るために、秦氏が祖の神として祀ったのが「養蚕神社」とのことです。 帰ってから知ったのはガイドブックに載らない、パワースポットだったということ。 次ページはさなるミステリーが! 同じ敷地に秦氏にまつわる太古のお稲荷さんがありました。祠の中に入ってお詣りしてきました。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!

36人が本棚に入れています
本棚に追加