祖母の椅子

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 祖母が亡くなったのは、俺が祖母の家から通える仕事に転職してすぐだった。祖母は椅子に座ったまま静かに亡くなっていた。ヘルパーさんが、祖母を支え、椅子に座らせ、朝食の支度に取り掛かったのち、用意ができてから声を掛けても反応がなかったそうだ。俺は通勤中に連絡を受けて、祖母が運ばれた病院に駆けつけたが、そのときにはもう、祖母は息を引き取っていた。俺はヘルパーさんに支えられ、顔に薄い布を掛けられた祖母の脇の椅子に腰かけた。ヘルパ-さんは涙を流しながら、祖母が穏やかな表情で亡くなったこと、お気に入りのあの椅子に座って亡くなったことを聞いた。俺はヘルパーさんに祖母のあの椅子が祖母にとってどういうものか聞きそびれたことを伝えると、ヘルパーさんは笑顔で応えた。祖母はヘルパーさんに一度、その答えを漏らしていたらしい。祖母はヘルパ-さんを誰かと間違えて呼び止めたそうだ。ヘルパ-さんは戸惑ったものの、誤解を受け入れて、祖母の話を聞いたらしい。祖母は、男の名前を呼んでいたそうで、どうやら祖母の椅子はその男の人からのプレゼントだったらしい。祖母は自分にぴったりの椅子を作ってくれた男に何度も感謝していたという。そこで俺はふと、祖父にそんな趣味があったのか、と疑問に思った。その事をヘルパ-さんに伝えると、ヘルパ-さんは少し躊躇ってから、教えてくれた。祖母はその椅子の男に感謝を口にしたあと、涙を流したそうだ。動揺したヘルパ-さんが祖母の肩に手を掛けると、祖母は優しくその手に自分の手のひらを重ねて、あの時、あなたについていかずにごめんなさい、と謝りだしたという。そのあと祖母は祖父が両親の事業の窮地を救い、その上で想いを告げられ、断ることができなかった、と話した。祖母は震えながら続けた。あなたが、私たちに祝いの品としてくれたこの椅子があなたが職人になるために旅立つ前に私との決別として用意したものだとわかっていたのに、なにもできなかった。私はあの人と一緒になれて幸せだった、けど、この椅子に座ると思い出すの、それに、もし、あなたとの未来があったらどうだったかって考えてしまう。そんな椅子を作れたのだからあなたは本物の職人だわ。ヘルパーさんは何も言えずに笑い掛けたそうだ。祖母がその話をしたのは一度きりで、心の中に納めておこうとしていたらしい。俺はそれから、そうだね、これは、二人の秘密にしておこう、と遠い祖母の恋を思いながら、ヘルパ-さんに笑い掛けた。
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