虚構の道

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 下宿先であるそのみすぼらしいアパートから出てきた男は、辻島修であった。今日は1限から講義があるので、夜型の彼は、すごく眠たそうにしている。足取りも、少し怪しい。そのフラフラした細い足で、アパートから出て10歩も歩かないうちに、辻島は立ち止まり、ごそごそと持っているカバンの中を漁りだした。  10秒も漁っていたろうか、彼はハッとして、急いで自室に引き返した。ドタドタとすぐに表に出てくると、はあーと安堵のため息を漏らし、手に持つその目的の物を、ひしと抱きしめた。そして、 「これがないと、稲妻が落ちた時、困るからなあ」  と呟いた。彼が手にしていたのは、単なる大学ノートである。特注のものでも、高級なものでもなく、誰もがおそらく一度は使ったことがあるだろう、何の変哲もないノートである。しかし、彼には特別なものなのだ。退屈な講義の合間合間に書きためた、漫画がたくさん載っているのである。そう、辻島は漫画家になりたいのだ。そのために、せっかく苦労して入った大学の勉強よりも、優先して日々漫画の勉強に勤しんでいる。そのせいで気がついたら、深更深くにしか眠られぬ、夜型人間になってしまったのであるが。  そのノートをカバンに大事そうにしまうと、急いで大学に向かった。辻島は、東京は本郷にあるT大学の文学部に所属している。下宿からT大まで、歩いて15分くらいで着くのだが、一人暮らしの常として、彼は時間に追われ、いつも走って登校している。ゼエゼエ言いながら正門をくぐると、後ろから声をかけられた。 「よ!漫画家センセ!」  辻島が振り向くと、ニヤニヤした山岡の顔がそこにはあった。辻島は露骨に嫌な顔をした。 「やめてくれっていってるだろ。まだただの素人なんだから」  山岡はお調子者なやつで、いつもこうして辻島に絡むのである。 「今度はどんな話を書いてるんだ?また暗ーい話か?」  からかうような言い方が、辻島には痛かった。 「どうでもいいだろ。僕には僕の考えがあるんだ」  しかし、山岡のこの「暗い」という意見は、あながち見当外れなものでもないのである。しかし辻島自身は、自分が書くものを暗いとか陰湿だとか思ったことはない。が、人に見せれば山岡以外にも、そのような評価をよくされていた。人間の心理に迫るテーマが多いせいでもあるだろうが、それよりもっと問題なのは、辻島の作る漫画のストーリーに起伏があまりなく、読んでもどこで悲しく思ったり、感動したりすればよいのかがよくわからず、感情移入がしにくい、描写が内面に向けられすぎていて、外見的な変化が乏しいなど、正直言って、「面白くない」、ということであった。それに、漫画にそんな純文学みたいな要素は要らない、という意見もあった。辻島は絵は相当に上手かったが、それを殺してしまうほど、物語を創作する能力が著しく欠けていたのである。自分でもそれがよくわかっていて、何度も改善を企ててみたものの、一向に上達する気配がない。以前、この山岡に見せた時にも、 「最後まで読む気が起きない」  と手厳しい意見を与えられた。こんな素人に何がわかるんだ、とその時は自分に言い聞かせて気にしないように努めたが、いつの間にか頭の隅にその言葉がこびりついて取れなくなり、山岡に漫画の話をされる度に、恥ずかしいようなむず痒いような嫌な気分に落ち込むようになった。だから今も、一刻も早くこの話を切り上げたくて、 「早く教室に行かないと、遅刻するよ」  などと、ガラにもない正論を吐いて、目的の講義室へと山岡を追い立てたのであった。
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