夢魔はスラッガーがお好き

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 白いノートを広げたまま、冬の夕陽に照らされた窓の外を見るともなしに眺めている時だった。  何やら熱心に分厚い本をめくっていたルキが突然、「あった」と声を上げた。 「京之助、ユキヤ、ちょっと見ろよ」  ルキは黒縁眼鏡を指先で持ち上げながら、開いたページを京之助と俺に向ける。 「眠れない原因、これじゃね?」  ルキの隣で頬杖をついて船を漕いでいた京之助がぱっと目を開け、本にかぶりついた。  俺とルキ、京之助は同じ高校の二年生で、野球部のチームメイトでもある。期末試験前の部活休止期間、放課後になると校内の図書館に試験勉強という名目で集まるのがここ数日の日課である。  京之助はここ何日か、深刻な不眠に悩まされている。  毎晩のように夢にうなされ、浅い眠りから目覚めた時にはぐったりと疲れ果てているのだという。  問題はその夢の内容で、 「昨日はひと晩中、延々としゃぶられ」 「しっ!」  下半身を指しながらぼやく京之助をルキが素早く制する。俺たちのテーブルの横を一年生と思しき女子が通り過ぎるところだった。  京之助が言うには「ドエロいお姉さん」が夢に出てきて、そんじょそこらのAV女優顔負けの「おとなのスゴイ行為」を毎晩、それもひと晩中、あの手この手で京之助にもたらすらしい。  最初のうちは冷やかしたり羨ましがったりしていた俺たちも、それが三日四日と続いて目の下のくまを日に日に濃くするさまを見ていると、まるでそれらの夢が京之助から精気を奪い取っているかのように思えて、尋常ではないことが起きているのだと悟ったのだった。  ルキの指先がトントンと文字をつついた。 「ほらここ。『夢魔(むま)』ってやつ」 「ムマ?」  京之助と俺の同時に聞き返す声が重なった。  この図書館のどこにあったのか、妙に古めかしい分厚い本の、ルキの指差した部分には小さな文字がびっしりと並び、何やら黒っぽい挿絵が描かれている。京之助はその部分に顔がくっつくほど食い入るようにして読んでいる。 「夢に出てきてエロいことして、精液を吸い取ったり子孫を残そうとしたりするんだと。インキュバスとかサキュバスとか言うらしい。お前の夢のは女の人でお前をイカせるからサキュバスだな。聞いたことあるだろ、サキュバス。よくゲームとかに出てくるやつ」 「お前野球とガリ勉しながら、いつの間にゲームしてんの?」  的外れなことを京之助が真顔で訊き返す。  夢魔……サキュバス……。そんなものが本当に存在するのだろうか。  もしも本当にいるならば、何故それが野球部の中で最も女子の人気をさらっている京之助の夢に現れるのか。  そんなことをぼんやり考えながら、真っ黒な翼を大きく広げる悪魔の姿のようなその挿絵を、俺は無意識のうちに凝視していた。      *  野球部の部員は全員が寮生活をしている。  三年生が退寮して新入部員を迎えるまでの数週間、俺たち二年生は本来二人部屋である場所をひとり気ままに使うことが出来る。  ひとりの時で良かった、と京之助は眠そうな顔で言った。毎朝のように下着を替えなければならないらしい。最初は猛烈に恥ずかしがっていた京之助も、今では「穿き替える瞬間が一番情けない」と感情の窺えない声で言うようになった。  消灯後、二段ベッドの上段で間近に見える天井をぼんやりと眺めながら、俺は夕方に見たあの絵のことを思い返した。  お洒落でイケメンで、野球部では四番打者の俺に並ぶ有能なバッターとして名を馳せる京之助は、一年生の時から学年問わず絶大なる人気を博していて、彼女の座を狙う女子からの告白を受けることもしょっちゅうだった。「部活が忙しいから」とそのたびに断っているのに、基本的に女子に優しいので妬まれているような話は一切聞かない。  ふたりには言っていないが、俺はずっと不思議に感じている。  至って健全な京之助があんな悪魔にうなされて苦しんでいるのに、穢れた俺が毎晩ぐっすり眠っていられるのは何故なのだろう。  昨夏の地区予選敗退後、付き合っていた三年生の女子と別れた。マネージャーだった彼女とは、部活の帰りに男子寮の近くまで手を繋ぎ、時々物陰で軽いキスを交わす程度の初々しい関係だった。  三年生を差し置いてエースナンバーと四番打者の座を同時に与えられた夏の地区予選で、投手として大量失点したうえに、打席ではことごとく凡退してチャンスを潰した。  人目を憚らず涙に暮れる先輩たちの背中を見ながら、俺は人生の中でもっとも強い憤りを自分自身に覚えていた。  三年生の引退式の後、彼女に「別れよう」と告げた。「野球に集中したいから」と伝えたが、納得のいかない様子で彼女は大粒の涙を流した。  それまで「京之助の次にモテるのはユキヤ」だと少なからず耳にしていたのが、翌日以降女子から向けられる視線が一斉に冷ややかなものに変わった。  俺はそれまで以上に野球に没頭した。そうでもしていなければ、この世から逃げ出してしまいそうだった。  今でも忘れない。言葉少なに、それでも俺を責める目をしながらぽろぽろと涙を零す彼女の表情は、はっきりと瞼の裏に焼きついている。  まるで今この瞬間も目の前にいて、俺の目をじっと見ながら泣いているかのように、その記憶は鮮明で生々しい。  艷やかにウェーブした真っ黒な長い髪、マネキンのように真っ白な肌、濃くて長い睫毛に縁取られた大きな瞳は金色に光り……あれ?  俺は慌てて目を開け……ようとしたが全身が動かなかった。いや、目はしっかり開いているはずだ。何故ならば目の前にいる元カノがちゃんと見えている。  いや、ちょっと待て。元カノってこんな子だったっけ。  俺はひどく混乱した。夏の炎天下に毎日俺たちの練習に付き合っていた彼女の肌はトーストみたいにこんがりと日焼けしていたし、髪の毛はストレートのセミロングでいつもきっちりひとつに結んでいた。切れ長の瞳は眩しい太陽光の下でもせいぜい焦げ茶色で、宝石みたいに金色に光ることなどありえない。  では、今俺の目の前にいるのは、誰だ?  ――ユキヤ。  真っ赤な唇が甘く囁きながら近づいてきて、熱い吐息が俺の鼻先に吹きかけられる。  周囲に漂う強い香りは、夜の街に向かう女の人のように妙に官能的で甘ったるくて、俺自身の奥底で長らく眠りについていた本能の部分が蠢き出すのを嫌でも自覚せねばならなかった。  目の前にいるのは元カノではない。女とも男とも判別がつかない、しかしやたらと妖艶な人物が、熱くて艶めかしい視線をまっすぐ俺に向けながら、指先で軽く触れているだけなのにいとも簡単に俺をシーツの上に繋ぎ留めている。  ――ユキヤ。  その赤い唇は薄っすらと微笑みを浮かべ、その身体は俺の顔を覗き込んだまま微塵も動かないのに、確かな声が熱っぽい吐息を伴って俺の耳朶をねっとりと撫ぜる。  頭の中に真っ白な靄がかかり、幾度も思考が停止しそうになる。  背筋をゾクゾクと震わせると、「怖い?」と頭の中で聞こえてきた。  怖いかって? 俺は自問自答した。  この震えは恐怖からくるものなのか、それともみだらな欲望からくるものなのか……?  赤黒い爪の尖った指が黒っぽい塊を摘んでいる。雫をかたどったそれには見覚えがあった。元カノと初めてキスした日、一緒に食べたウィスキー入りのボンボンショコラと同じ形をそれはしていた。  目の前のその人は俺の視線と意識を捕らえたまま、俺の目をうっとりと見つめながら、濡れて光る赤い舌をちらちらと覗かせて、それから白い歯を立てた。  カリッ、と小さな音を立てて真っ二つに割れた塊の中から、液体がとろりと溢れ出る。それはその人の爪の色と同じ、血のように赤黒く、とろとろと滴り落ちて俺の唇を湿らせる。  慌てて口をつぐんだが遅かった。その液体は生温かく、甘ったるく、独特の香りを放ちながら、尽きることなく溢れ出ては俺の唇を濡らし、口の中に溜まっていった。  身悶えしながら息を止め、必死に耐えたが限界だった。溺れそうな息苦しさにとうとうそれを飲み込んだ。  その瞬間、バサッと音がして空気が大きく揺らいだ。  目の前には妖艶に微笑むその人がいて、その背後には禍々しくも美しい、漆黒に光る巨大な翼が、今にも飛び立たんとするかの如く視界を覆うように広げられていた。  俺は全身を震わせながら、自分でも理由のわからない声を上げた。      *  翌朝、冬の太陽が昇りきらないうちに目が覚めた。  絶望に似た感情に襲われながら、汚れた下着を素早く穿き替えた。  頭も身体も泥に埋められているかのようにひどく重たかった。  京之助は朝食の時間に現れなかった。部屋を覗くと、なんと布団にくるまって気持ちよさそうに熟睡していた。1限目に間に合う時間に起こしに行き、寝ぼけまなこの京之助をルキとふたりがかりで引きずって校門へ向かった。 「久しぶりに爆睡した」  京之助は大きなあくびをしながら「なんでなのかはわかんないけど」と、ここ数日聞くことのなかった張りのある声で言った。 「もう俺に飽きたのかな、あいつ。それはそれでちょっと寂しい気もするけど」 「なんにしても眠れたんなら良かったじゃん」  爽やかに笑う京之助と、安堵した様子で彼の背を叩くルキのやりとりを見ながら、俺は曖昧な相槌を打つことしか出来なかった。  昨夜、俺のところに来たよ。  そのひと言を打ち明ける勇気が、どういうわけか少しも湧いてこなかった。  京之助はすっかり普段の調子を取り戻したようで、校門が近づくにつれ手櫛で髪の毛を整えたり制服の襟を直したり、周囲に視線をやっては「あの子髪切ったんだな」とか「あいつらあんなに仲良かったっけ?」とか、普段どおりの観察力を発揮させた。 「あっ、あそこ」  不意に京之助が声を潜めたので、ルキと俺は彼の視線の先に目を向けた。  俺たちの数メートル先に見慣れない後ろ姿があった。  俺たちと同じ制服を来て、今にも校門を通過しようとしているから明らかにうちの生徒のはずだが、初めて見る背格好だった。 「あいつだよ、例の、謎の転校生」  どこから仕入れてくるのか京之助は人間関係の情報や噂話に詳しい。昨年末、12月の後半という異例の時期に転校生が来たことを俺が知ったのは、京之助から聞かされたからだった。 「あっ、やばい」と今度はルキが声を上げた。 「あと5分で予鈴鳴るじゃん」 「やべっ、急げ!」  ルキと京之助が同時に走り出す。つられたのか周りにいた他の生徒も小走りに駆け始めた。 「遅えよユキヤ!」  振り返りながら呼ぶ京之助に「誰のせいだよ」と声に出さずに言い返すと、俺は相変わらず泥のように重い身体に鞭を打ち、靴の裏を地面から引き剥がした。      *  放課後、俺は珍しくひとりで図書館に向かった。京之助は「寝足りない」と授業が終わるなり早々に寮へ帰ってしまったし、ルキは「先生に質問があるから」と教科書と分厚い参考書を抱えてどこかの準備室に行ってしまったのだ。  ひとりで図書館へ行くのはなんだか気が重かったが、寮で机に向かったところで勉強出来るとも思えなかったし、昨夜のことをひとりきりの空間でゆっくり思い返してみたくもあった。  今日は朝から散々だった。寝不足なのに神経は高ぶっていて、気が緩まるたびに昨晩のあの夢が――あの情欲的な瞳が、吐息が、濃密な感触と衝撃的な光景が鮮明に蘇ってきて授業どころではなかった。  憂鬱な気持ちで図書館に入るなり、どことなく違和感を覚えた。いつもであれば数人の生徒の姿があるのに、今日に限って誰ひとりとして見当たらない。司書も何かに熱中しているのか顔を伏せており、カウンター越しに頭頂部が少し見えているだけだった。  俺はいつものテーブルを素通りし、閲覧フロアの奥にある視聴覚ブースに向かった。ここでは教材動画の他に、「健全」と呼ばれる映画やスポーツ映像を観ることが出来る。  ブースの一角に、制服姿の生徒がひとり、座っているのが目に入った。  この奥にトイレがあるのでこれまでにも何度か通りがかったことがあったが、この設備が使われているのを見たのは今日が初めてだった。  珍しいことがあるものだ、と近づきながら気がついた。  その背中は今朝見かけたばかりの「謎の転校生」のものだった。  きっと教材でも観ているのだろう。一番奥のブースに向かいながら通りすがりに何の気なしにその画面へ目をやり、思わず足が止まった。そこに映し出されていたのは教壇ではなく野球場で、しかもメジャーリーグの、最近特に気になっていた選手の映像だったからだ。 「ハニガーじゃん」  反射的に声に出してしまった。慌てて自分の口を手で覆ったのと同時に、転校生がとっさに振り返った。  口を手で塞いだまま、俺は再び声を上げそうになった。  目を見開いて振り返った転校生のその顔は、この学校生活の中で初めて見るものでありながら、それは間違いなく、昨晩夢に出てきたあの顔とまったく同じだったからだ。  愕然として立ち竦む俺とは対象的に、目の前の表情はすぐに緩み、柔らかい微笑が浮かび上がった。 「びっくりした。ハニガー知ってるの? メジャー好きなんだ? ……あ、もしかして君、野球部で四番の……?」  昨夜見て以来、今の今までいっときも忘れられなかったその顔が、アーモンドの形をした大きな瞳をきらきらと輝かせながら、俺に尋ねる。  俺は全身を硬直させたまま、呪縛されたかのようにその顔から視線を剥がすことさえ出来ずにいた。  次第に目の前の表情が曇り、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。 「……大丈夫? ユキヤくん」  ユキヤ――その発音は昨晩聞いた、あのねっとりとした甘い囁きとまったく同じ響きをして、俺の耳元をふわりとなぞる。  返事も出来ずに突っ立っている俺の胸元に、不意に小箱が差し出された。 「食べる? 落ち着くよ」  めまいがした。  箱の中には深い焦げ茶色の、雫の形をしたチョコレートが入っている。  それは間違いなく元カノと初めてキスした日に口にした、ほんのり苦いウィスキーボンボンと同じであって、目の前にあるこの顔が昨晩妖艶な仕草で囓って見せた、俺に我を忘れさせた、甘くて苦いあの塊と同じであって……。  恐る恐る視線を上げる。  自分よりもずっと大人びて見えるその表情には、昨夜以降すっかり瞼に焼きついている、高校の図書館には似つかわしくない妖しげで魅惑的な微笑が確かに浮かび、熱く潤んだ瞳がまっすぐに俺を捉え、けっして離そうとしないでいる。  俺は背筋を震わせながら、この震えが恐怖からくるものなのか、それとも昨夜と同様の、狂おしいほどの欲望からくるものか、とうとう判断が出来ないまま、気がつくと小箱の中身に手を伸ばしていたのだった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!