鏡の裏にひそむ、聖女と悪女

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 世界の裏側には、光と闇だけがある。  人はもちろん、生物と呼べるべきものはひとつもない。幼きころから、アルドはそう思っていた。  アルドには他人には言えない秘密があった。それは鏡に触れると、世界の裏側に流れてしまうことだ。触れば必ずそうなるわけではない。時々、なぜか裏側に流されてしまうのだ。  世界の裏側は表と似ていた。部屋も建物も、草原も山も、川も空も、ほとんどが表側と同じだった。違うところがあるとすれば、人や動物が存在しないということだった。 「また触ってしまった。気を付けていたのにな」  無意識に鏡を触ってしまったために、アルドは数日ぶりに世界の裏側へ来ていた。見渡すと、そこは友人の家の裏側だった。先ほどまで話していた友人の姿は、もう無い。代わりに、奇妙な色と形をしたなにかが、友人がいたはずの場所でうごめいていた。  うごめくなにかは、白と黒が混ざっていた。白と黒は常にうごめき混ざり合おうとしていたが、最後まで灰色になることはない。なんとか灰色になろうとして、時折白と黒以外に発色した。幼いころは、これらが表側の人間なのだと理解できなかった。怪物ですらなく、ただひたすらに気味の悪いなにかとしか思えなかったのだ。見慣れるようになってきたのは、ごく最近のことだった。 「帰らないと」  アルドはそう言って、先ほど触れた鏡に手をのばそうとした。  鏡に触れても、必ず帰れるわけではない。すぐに帰れることもあれば、数日帰れないときもあった。とはいえ、触れなければ帰ることができないのだ。  伸びたアルドの手が、鏡に触れる。  コツリと硬い感触が伝わってきて、ああ、まだ帰れないのだなとアルドはがっかりした。  次に帰れるのはいつだろう。  明日か、明後日か。  思い悩んでいるうちに、鏡の中で何かがまたたいた。どうしたのだろうと、アルドは首をかしげた。もしや帰れるのではないかと、鏡に触れる。しかしやはり硬い感触が伝わってきて、帰れそうにはなかった。  直後、アルドの後ろで強い光が放たれた。アルドは驚いてふり返り、光の方向から数歩、飛ぶように離れた。 「待って!」  光から、大きな声が鳴った。それは女性のようだったが、一瞬のことだったのでアルドにはしっかりと聞き取ることができなかった。しかし声が鳴ったので、アルドは光を見たままじっと動かなかった。不思議と、逃げなくてはという考えに至らなかった。  光は友人の部屋に飛びこんでくるやいなや、大きく跳ねた。というより転んだようだった。光の中から、女性のうめき声のようなものが聞こえてきた。 「ああ! ちょっと! 抱きとめてくれてもいいでしょう!?」  再び、大きな声が鳴った。声はやはり女性のようだった。光の中から声を放っているらしく、アルドには声の主の姿を見ることができなかった。 「……ああ、ごめんなさいね。見えませんよね」  女性の声は恥ずかしそうに言う。しばらくすると光が弱まり、一人の女性が姿を現した。とはいえ、女性の姿は光そのもののようだった。人の形として見えはするが、薄い絹布を通して見ているようだった。目を凝らしてみても彼女の姿はぼんやりとしていて、かすかに細身の女性なのだと分かる程度だった。 「誰なんだ」  アルドは不思議に感じていた。世界の裏側には、人間も動物もいないと思っていたからだ。しかし光の中には、少なくとも人間の言葉を話している何かがいる。人間に近しい存在が世界の裏側にいたのだと、感動に似た驚きをアルドは感じていた。 「ごめんなさいね。驚かせてしまって」  光の中の女性は申し訳なさそうに言って、頭を下げたようだった。 「私の名前は、アラグア」 「……アラグア? あなたは、何者なのです?」 「ううん? その前に大事なことがあります」  アラグアと名乗った女性は、光の中で二度ほど跳ねた。どうしたのだろうと思って見ていると、アラグアをおおっていた光が薄れ、彼女の姿を鮮明に映しはじめた。  アラグアは十代半ばに見える少女だった。髪は白に見えたが、光に満ちて輝いているので何色なのかもわからない。肌はなめらかで、宝石か貴金属を思わせた。身をつつむ金と白の衣は、女神か天使が着るもののようで、美しさと畏怖を感じさせた。 「大事なこと?」  アルドは半歩下がる。すろとアラグアは二歩、彼に近付いた。 「そう! あなたのお名前です!」 「……え?」 「あなたのお名前です。私は名乗りましたよ?」 「あ、ああ。そう、ですね。そう、か」  やわらかい笑みを浮かべるアラグアに、アルドは圧された。美しい少女なのだが、単純に美人だとか可愛いなどと思うことができない何かが、アラグアに備わっていた。 「……ボクは、アルドです」 「そう! アルドね!」  アラグアはアルドを見つめて、跳ねるように喜んだ。 「アルド。お願い、力を貸してほしいの」 「え?」 「急なことで意味が分からないかもしれないけれど……って、ちょっと待ってえ!」  アルドに話しかけている最中に、アラグアが突然叫んだ。怯えるようにして、アルドに抱きつく。  女性に触れる機会などたいしてないアルドにとって、アラグアの行動は強烈だった。美しい少女が抱きついてきたのだ。これは幸運なことだと、一瞬だけ思考した。しかし、本当に一瞬だけだった。なぜか強い畏怖がアルドの心を圧し、身体を震わせたのだ。なぜと考えることすらできなかった。ひたすらにアラグアの存在に恐れを感じたのだ。  アルドが震えていると、突如地面が揺れた。揺れは凄まじいもので、抱きついていたアラグアを引きはがすほどだった。 「痛ーい! 痛いのよ! クトレメア!」  アルドから離れて跳ね飛んだアラグアが怒鳴った。 「知らないわ。抜け駆けするお前が悪いのよ」  アラグアとは別の女性の声が、どこかから聞こえた。 「勝負と言いだしたのはあなたじゃない! それに私は、ちゃんとアルドにお願いしてるところだったの!」 「アルド? へえ? アルドって言うのね?」 「やめてよ、クトレメア! あなた、無理やり従わせるって言っていたじゃない。そういうのって、良くないと思うの」 「抜け駆けするのは、良いことなの? 笑ってしまうわ」 「だって、あなたが何するか分からないから!」  アラグアは、クトレメアと呼ぶ相手に怒鳴りつけた。アルドは辺りを見回したが、クトレメアの姿を見つけることはできなかった。すぐそばに、友人と思われる白と黒のうごめく何かが見えるだけだ。 「どこにいるんだ?」 「アルド! 探してはダメよ!」 「へえ? アルド。 私を探しているのね?」  クトレメアの声が鳴った。先ほどまでとは違い、アルドの耳元で囁いたようだった。驚いてクトレメアの声から離れようとしたが、アルドの身体は大きな手に掴まれて動けなくなった。 「な、な、なんだ? なぜ、こんなことをするんだ?」 「アルド。アルド。何も知らないのね。教えてもらわなかったのね。可哀そうなアルド」 「な、な、何も知らない! いったい、な、何がどうなってるん、だ!」 「可哀そうなアルド。教えてあげる。聞きなさい。じっと、聞いて」  クトレメアの声が、再びアルドの耳元で鳴った。彼女の姿は、暗闇に包まれて見えなかった。  アルドは心底震えあがった。アラグアから感じる畏怖とは違い、冷たい恐怖が身体の奥を締め付けて、壊していくようだった。 「私は、宝玉を取り戻したいの。見えるかしら、あなたには。私には見えないのよ」 「……ほ、宝玉、く?」 「そう。宝玉よ。闇の宝玉を取り戻さなくてはならないの。百年に一度のことなのよ」 「……ひゃ、ひ、百、ね……ン、ん、ン?」 「やめて! クトレメア! アルドが壊れてしまうわ!」 「あら。ごめんね。なんて弱いのかしら。可哀そうなアルド」  アラグアの声が鳴ると、クトレメアの声が遠ざかった。するとアルドを掴んでいた大きな手も消えた。 「大丈夫? アルド、ごめんなさいね。怖がらせたくはなかったのだけど」  アラグアの声はやさしかった。声が近付くと畏怖のような恐ろしさがアルドを縛ったが、クトレメアから受けた恐怖をぬぐってくれているようにも感じた。 「なんなんだ。さっきから。なんの話をしているんだ?」 「あまり難しい話ではないの。ちゃんと話すわ」  そう言うとアラグアは、アルドから少し離れて立った。すると彼を縛っていた畏怖が消えた。身体が軽くなったのを感じて、アルドは少しだけ上半身を伸ばした。
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