真を写す

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社会に出る、という言葉は。 その人とか、その時代によって、それぞれに違う意味を持つのだろう。 やりたかった仕事に就き、あらゆる面で不満がなくても、何かの事情で仕方なく退職してしまった人もいるだろう。 逆に、想像した仕事内容とはかけ離れた意外な世界に飛び込んだのに、思わぬ長居をしてしまった人もいるだろう。 秋場潮雄は将来の事などあまり真面目に考えた事がなかった。 工業高校に入ったのも何となくだった。 三年生になって就職先を探さなくてはならなくなっても、やりたい事が見つからなかった。 もう働かなくてはいけない。それは分かっていたけれど。 取り敢えず受けてみた、それなりに狭き門の会社は落ちてしまったので、取り敢えず簡単に入れそうな会社の面接試験を受け、取り敢えず入社する事になった。 「工業高校の電気科を出たのに、そんな仕事に就くのか。 ちゃんと結婚して子供を持って、暮らして行けるのか?」 真面目な親父はそう言いながらも、焼酎を吞みながら「やるからには頑張れ」と言ってくれた。 この人がただの堅物ではなく、自分の親だと言う事に初めて気付いた。 「潮雄、元気でね」 故郷を離れる日。母さんはバス停で人目も気にせず、親父より大きくなった息子を抱き締めてそう言った。 恥ずかしいからやめろよ、といったものの、バスに乗ると涙が止まらなくなった。 そんな母さんと、まあついでに親父の為にも。 取り敢えず、頑張ろう。 取り敢えず、やってみよう。 長かった昭和が、もうすぐ平成に変わろうとしていた。
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