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私が気絶しても、目が覚めても、状況は大してなにも変わらず、ただ別人になったという事実だけが重くのしかかっていた。
この陽葵さんとやらの彼氏さんらしき人は、私が倒れてからも慌てて布団に寝かせてくれ、甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
もしかしてこの人働いてないんだろうか……一瞬その疑惑が浮かんだものの、彼は「今日はシフト休みだったからよかったけど……陽葵の店にも連絡入れるからな。ちょっとスマホ貸して」と言ってくるので、納得する。
なんだ、この人シフト制で働いている人かと。
とりあえずずっと裸でいる訳にもいかず、どうにか服を引っ張り出してきた。
下着も私だったら絶対に買わないような柄がたくさん付いたものだし、インナーからセーターまで私の好きな柄なしのシンプルなものがひとつもない。やけにごちゃごちゃした色のセーターとか、キャンディーみたいにセーターの柄が主張しているものとか、そんな中からかろうじて私の趣味に合いそうなオフホワイトの太い毛糸で編み上げたようなデザインのカーディガンを羽織り、レギンスを穿いた。本当だったらもうちょっと太めのデニムやロングスカートが穿きたかったのだけれど、何故か持っているスカート持っているデニムが体のラインを露骨に出すものとか股下があまりにも短いものとかしかなかった。
服ひとつ着るのだけで、どうしてこんなに時間がかかるんだ。私はようやく着替えたのを、やはり彼氏さんは怪訝な顔をして見ていた。
「お前本当にどうしたの? なんか食べる? なんか食べたあと、病院にでも行くか? ええっと……こういうときって何科に行けばいいんだっけ」
この彼氏さん、無茶苦茶いい人だなあ。年下だしもっとノリのチャラついた人かと思っていたけれど、意外なほどのきめ細やかさに、人を見た目だけで判断してはいけないと教育界に身を沈めているのに抜けきらない先入観に、深く反省する。
「あのう……すみません」
「ん、どうした?」
「私……その、陽葵さんではないんですけど」
「……はあ? お前やっぱり病院……」
「いっ、いえ……病院に行ってもわからないというか、おかしくなったと思われるのも困るんですけれど。ええっと……私。実は高校で国語講師をやっているんですよ」
「はあ?」
彼は形のいい眉を思いっきり寄せてしまった。そりゃそうだろう。自分の彼女面した女が、いきなりあなたの彼女じゃないと言ったら、誰だってそうなる。
でも私だって必死だ。だってこの人以外に頼れる人はいないし、そもそもここがどこなのかも、私の体の現状だって、なにもわかっていないんだから。いきなり彼女だと思われて接してこられても、こちらだって彼女じゃないんだから付き合えない。
私はどうにか国語講師らしいことを言って証明しないといけないと考え込んでから、とりあえず覚えている本の内容を朗読しはじめる。
「『恥の多い生涯を送ってきました』」
「……はい?」
「『自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生まれましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした』」
「おい、陽葵……?」
「ちなみにこれは、太宰治の『人間失格』の序盤です。私も全部覚えている訳ではありませんけれど、内容を説明してもよろしいでしょうか?」
「え……太宰治……どっかで聞いたことあるような……」
テストの点になるからと、一応有名作家と代表作は生徒に教えてはいるけれど、原文を読んだことある子たちがその内どれだけいるのかは、私にもわからない。
「最近はともかく、高校時代に現国で一度は触れているかと思います。『トロッコ』とか『走れメロス』とかは、短編ですからそのまんま教科書に載っていることは多かったですし」
「……本当に、現国の先生で? あなたは?」
だんだんと彼氏さんは、他人行儀な口調になってきた。
こんないい人と本物の陽葵さんが離れているのは、やっぱりもったいないなと思いながら、私は頭を下げた。
「大変申し訳ありません。私は、遙佳深月と申します。どうして彼女さんの体にいるのか、私もわからなくって……」
「そりゃまたご丁寧に……ええっと、陽葵のほうは俺が休みの連絡入れましたけど、その、遙佳さんは休みの連絡を入れなくっても大丈夫ですか?」
「えっ?」
「ほら、学校」
そう言われて私は時計を見た。
私の受け持ちの学校の授業はとっくの昔にはじまっているし、私が無断欠勤して、誰が現国の穴埋めをしているんだろうとダラダラと汗をかく。
ひとまず陽葵さんのスマホを使って、学校に連絡することにした。
『はい、山並高等学校です』
「すみません、講師の遙佳ですが。本日ちょっと忌引きを使いたいと思いまして……」
他の職業だったらいざ知らず、講師が大型休暇を取れる訳もない。とっさの判断で、誰を死んだことにしようと失礼なことを考えていたら、電話を取ってくれた事務員さんは変な声を上げた。
『あのう、遙佳先生は、既に退職届が受理されていますが?』
「はい?」
『失礼ですが、どちらでしょうか?』
そう言われてしまっても。
私がだんだん表情をなくしていくのに、彼氏さんは他人事ながらも心配そうな顔で見守ってくる。
待って。私、この年でいきなり職を無くしたの? しかも、私の体を見知らぬ女の子に取られた上で? なにそれ。
事務員さんの『もしもし?』の怪訝な声に、私は慌てて声を引っ繰り返して答える。
「あっ、あれ? 学校間違えました! ごめんなさい、失礼します!」
そのままブチッとスマホの電源を切ってしまい、私は彼氏さんのほうに顔を上げた。
「あのう……どうしました?」
「私、いきなり無職になってしまったんですけど」
「はいぃぃ……?」
「あの、あなたの彼女、いったいどんな人なんですか? 私、アラサーで、学校以外の職場なんて全然知らないのに、いきなり、学校辞めさせられてしまったんですけど?」
「ちょっと、落ち着いてください……」
「落ち着いてなんて、落ち着いてなんていられますかぁぁぁぁ! 私、帰るぅ! ここにいても、どうしようもないからぁぁぁぁ!」
パニックに陥って、とりあえず玄関を出ようとするものの、靴を見て愕然とする……全部ハイヒールで、ローヒールしか履いたことのない私だと、歩くどころか長時間立っていることすらできないものが、並んでいた……。
私はそのまま、へなへなと座り込んでしまった。
なんで、どうして、いきなり見ず知らずの女の子になったと思ったら、職まで失って、いったいどうしたらいいの……。
年甲斐もなく、ポロポロと涙が出てきてしまった。
「うう……うう……」
「ええっと……遙佳さん?」
彼氏さんはというと、心底申し訳ないといった様子で、おずおずと声をかけてきた。
「あの、俺は岸雄真と言います。その、うちの陽葵が、すみませんでした」
何故か彼氏さん……岸雄さんに大きく頭を下げられてしまい、私のこぼれていた涙は、少しだけ止まる。若い男の子だけれど、ずいぶんしっかりした子だなと、少しだけ感心してしまう。
「いえ、あなたが謝る必要は……」
「でも陽葵のせいですよね。今の遙佳さんの現状は」
「ええっと……まあ……私もどうしてこうなったのか、本当によくわからなくって」
「とりあえず、今はちょっとサンダルくらいしか出せないんですけど、それ履いて、靴買いに行きましょう。それで、遙佳さんの家に行きましょう」
岸雄さんにそう提案されて、私は心底ほっとした。
こうして見ず知らずのところにいて、味方ができたというときほど気が楽になることはない。
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