ラクダの諦念

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「ごめんなさい。私は……夫がいるから」  そう言う声は、ひどく頑なに聞こえた。  先輩はおれから目を逸らして、煙草に口をつけた。よく見ると、その左手が小さく震えている。白く華奢な手だ。薬指に嵌まった素朴なリングが照明を反射して、誰かを咎めるように銀色に光った。  喫煙室はマルボロの煙で淡く充たされている。その匂いはどことなくざらりとして、トゲがあるような気がする。嫌いというわけではないけれど、個人的に、先輩の持つイメージにマルボロは合わないと思ってもいた。  おれは自分の煙草の封を切り、一本目のフィルタをくわえた。キャメルを愛飲している。大学生の頃、おれは同じ名前のロックバンドに夢中になっていて、コンビニで偶然見つけたラクダのパッケージに一目惚れをした。以来ずっと、音楽への関心が薄れても、おれはキャメルを吸い続けてきた。  慣れ親しんだ風味で喉を軽く燻して、おれは最大限、明るい声色をつくった。 「そうですか。残念です」 「キミのことが嫌いとか、そういうわけじゃないんだよ」 「大丈夫ですよ、フォローしてくれなくても。嫌われてないのはわかってます」  うぬぼれたようなことをあえて言ってみる。先輩は苦笑いをした。  おれだって勝ち目のない賭けに挑むほど馬鹿じゃない。分の悪い勝負とは思っていなかった。いま、先輩にもっとも近しい異性は間違いなくおれだったから。それだけに拒絶されたのが切なくもあるけれど、まあ、仕方のないことだ。  先輩はそのあとはもう何も言わず、吸っていた一本を早めに揉んでしまうと、振り返らずに喫煙室を後にした。未練たらしいおれの視線なんて追いすがる間もない。  閉じられた扉は、しばらくぴくりともしないだろう。おれは行儀が悪いと知りつつもサイドテーブルに腰掛けた。失恋して絶望できるほど若くもない。とはいえ、明確な拒絶はやはり、それなりに深く刺さる。  あたりは静かだった。禁煙ブームのあおりを受けて、うちの部署にはふたりしか愛煙家がいなかった。フロアの端にある喫煙室は、おれと先輩以外は近寄りもしない。  おれが入社するまで、ここは長らく先輩の貸し切りだったそうだ。初めて鉢合わせたときのことはよく覚えている。先輩は気まずそうにおれに笑いかけた。 「キミも、煙草吸うんだ?」   残業前のひととき、先輩の内心は声に透けていた。正直なところ、おれのことを煩わしく思ったのだろう。先輩はひとりでいることを苦にする人ではなく、また多弁な人でもなかった。直属の部下とはいえ、よく知りもしない後輩と休憩を共にするのは億劫でしかなかったはずだ。おれの方も人当たりがいいわけではなかったから、なおさら。  こちらとしても、居心地の悪さに肩が凝りそうだった。いくらか身をすぼめて煙草に火を点ける。先輩のそばに行くことはできず、かといってその存在をまったく無視できるほど図太くもない。おれは中途半端な位置の壁にもたれかかって、ひかえめに息をすることにした。  沈黙は重く、一服というより苦行のようだった。どちらかの火が燃え尽きるまで耐え忍ぶチキン・レース。さっさと退室してしまうのがお互いのためかとも思ったけど、おれも慣れない仕事で疲れていた。休憩はちゃんと取りたかったし、できるなら先輩が出て行ったあとでもう一本味わいたい。  先輩として気を利かせちゃくれないだろうか、期待と煩憂をおっつかっつに抱えながら、横目で窓際にいる先輩の方を伺う。  硝子を透過して反射した夕日が、室内に拡散していた。おれは目を細め、  ――そして、我を忘れた。  誰かに見惚れて茫然とするなんて、初めての経験だった。  あたたかな光に包まれて翳る横顔。どこを見ているとも知れない厭世的な眼差しで、先輩は煙草を燻らせていた。  単に美人というだけなら、おれは方々の喫煙所で何度となく見かけたことがある。メディアに露出するような容姿の人も中にはいた。あるいは先輩は、その人たちほど目鼻立ちが整っているわけではないのかもしれない。気怠げな目や極端に薄い眉は、どこか危うい印象を受ける。  だけど、先輩の煙草を吸う姿を何よりもきれいだと思った。この瞬間を切り取って額縁に入れれば、ギャラリーの壁を飾る絵画の一枚にもできる。ごく自然に、そんなふうにさえ。  どれくらいのあいだ呆けていたのか。ふと、おそらくは気まぐれに、先輩はおれに視点を合わせた。目と目が合い、まるで思春期を取り戻したかのように心臓が跳ねる。  鉛のような沈黙を破るきっかけになったのは、やはり煙草だった。  先輩はおれの口元を指差して言った。 「灰が落ちるよ」 「あ、とと……すみません」 「それ、もしかしてキャメル?」   灰を受け皿に落として、おれはどうにか頷いた。 「ええ、まあ。そうですけど」 「そっか。本当に、奇遇だね」  先輩はそばのテーブルに置いていた煙草の箱を手に取って、おれに見えるよう顔の前にかざした。見覚えのあるカラーパターンのパッケージ、そこに描かれた、馴染み深い一頭のラクダ。 「いろいろ試したけど、これがいちばん美味しい」  あのとき、確かに先輩はそう言っていた。声にはそれまでなかった親しみを含ませて。 「キミとはセンスが似てるのかも」  あれからもう五年が経つらしい。まったくの無条件に長い年月と言うことはできないにしても、決して短くはなく、それなりに濃度のある日々だったと思う。  おれはラクダのおかげで先輩と親しくなれた。いろいろなことを教わった。仕事についてのみならず、煙草のこと、酒の味を教えてくれたのも先輩だった。そのいずれにおいても、先輩は幅広い知識と豊かな経験を持っていた。甲斐甲斐しく世話を焼いてもらった覚えはない。でも、その距離感はむしろありがたかった。不必要に肩肘を張らずに済み、気を楽にしていられる。  先輩にとって、おれはたぶん特別に可愛がっている後輩だった。おれにとっての先輩がどうだったかなんて、言うまでもない。  憧れだった。その感情が下心へと変容せずに済んでいたのは、出会った当初から先輩の左手にはリングが嵌まっていたからだ。シンプルな銀の指輪は魔除けのように、ともすれば逸ろうとするおれの浅ましさを押し留めた。  おれは先輩に対して真摯でいたかったし、さらに言うなら先輩のような人には真摯でいて欲しかった。不貞行為を唆すつもりはさらさらなく、だからこの恋は、始まる前からすでに終わっていたようなものだった。  そのはずだったのに……。  片付けた気持ちは、知らぬ間に引きずり出されていた。  昨年、ちょうど今頃。銀の指輪は不意に効力を失い、先輩は手の届く人になってしまった。忘れもしない。舞台装置としてはおあつらえ向きに、雪のちらついた日だった。  先輩は喫煙室の、普段と同じ一角で煙草を吸っていた。しなやかに伸びた背筋、上品な手付き、物憂げな横顔。何もかもいつもどおりの様子に見えていた。唯一違っていたのは、マルボロ。もしも先輩の手にそれがなかったら、おれは何に気づくこともできなかったと思う。  珍しいの吸ってますね、なんて、いかにも暢気に話しかけた。先輩は笑った。見たことのない、想像すらできなかった、泣き出しそうな笑顔。美味しくないんだけどね。そう前置きをして、「形見みたいなものだから」――。  先輩はその日から遡って一週間、休暇を取っていた。それが慶弔休暇だったことを、誰もおれに教えてくれなかったのだ。  だいぶ短くなるまで味わった煙草を、おれは灰皿で揉み消した。喫煙室の窓からは外の景色が伺える。今朝方はよく晴れていたのに、昼を過ぎて、雲行きが怪しくなってきていた。あるいはまた雪が降るかもしれない。  おれは二本目の煙草をくわえた。今日の分の仕事にはもうケリが付いている。ちょっと長めの休憩を取ったからって、誰に何を言われるいわれもないだろう。先輩の指導を受けることも、もうない。 「……嘘つきですね。先輩」  肺に溜め込んだ白い煙を、ゆっくり吐き出す。  室内に留まるマルボロの煙を上書きするように。 「先輩の夫は、もういないんですよ」
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