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1.予定にない同居人がいます
大学三年の春、僕は親元を離れひとり暮らしをすることになった。
別に今さらながら自立心を養おうなどと、殊勝なことを思い立ったわけではない。実家は大学から自転車で十五分足らずの好立地だ。わざわざ好き好んで出る必要などない。そこにはやむにやまれぬ事情があったのだ。
「だってお父さんにだけ単身赴任させるわけにはいかないでしょ? あんただってもう二十歳過ぎたんだから、少しはひとり暮らしの厳しさを味わった方がいいわよ」
「そりゃそうだけど」
「大体この家だって、いつまでも住めるわけじゃないんだから、ちょうどよかったじゃない」
引っ越しの荷造りの手を休めることなく、母が言う。
話は単純だ。三月になって突然父の転勤が決まった。詳しい事情は知らないが、元々行くはずだった人が直前になって家の都合で辞めてしまったらしい。
中高生の子供がいる職員はそれなりに配慮されるそうなのだが、ひとり息子の僕が既に成人している我が家は、残念ながらその範疇ではなかったというわけだ。
そのうえ僕の家はファミリータイプの賃貸住宅であったので、父の赴任先についていくことにした母は、いい機会だと言って、契約更新せずに退去することを選択してしまった。大学のある僕は、結果ひとりでこの街に残ることとなったのだ。
「あんたの分の家賃と生活費もちゃんと出してあげるんだから、ありがたいと思いなさいよ」
「はいはい、わかってますよ」
初めてのひとり暮らしへの期待と不安。
誰もが一度は経験するそれが、思いもかけぬ恐怖との巡り合わせだとは、そのときの僕は知る由もなかったのである。
◆
急に決まった家探しは、なかなかスムーズにはいかなかった。なにしろ大学近くの学生用物件は、既にあらかたが埋まってしまっていた。父の転勤がもう少し早く決まっていたらよかったのだが、こればかりはしょうがない。
それでも地下鉄沿線の単身者用アパートをどうにか探し出し、三月中には新居に落ち着くことができた。元々住んでいたところからは随分離れてしまったが、大学そばの駅まで乗り換えなしで行けるので、そこそこ優良な物件だったと思う。
築年数のわりにはきれいで日当たりのいいそのアパートに、僕は満足していた。これから卒業まで、いやもしかするとその後も住み続けることになるかもしれない部屋だ。ほかの居住者とはタイミングが合わず、まだまともに挨拶もできていないが、それ以外は特に問題はない。そう思っていた。
異変があったのは住み始めてちょうど一週間。大学の新年度が始まった日のことだった。
休みのあいだですっかり崩れてしまった生活リズムのせいで、いつも以上に早起きが辛く感じる朝。寝坊しても起こしてくれる家族はいない。離れがたい布団からやっとの思いで這い出した僕の目に、妙なものが映った。
――それは、台所に立っていた。
お茶か食事の支度でもしているのか、小刻みに身体を揺らしている。
擦りガラス越しに見える影のように、その姿はどこかぼんやりとしていて、なんだか現実味がない。それでも僕は寝惚けた頭で、もっともそれらしい解釈をした。
(ああ……、母さんが来てるのか……)
二つある合鍵のうち、一つは母に渡してある。もしかしたら頼りない息子の新生活を心配して、様子を見に来てくれたのかもしれない。朝食でも作ってくれているのなら大助かりだ。床に座り込みながら、僕は考えた。
けれどすぐに、両親とは昨夜電話で話したばかりであったことを思い出す。
『こっちは天気がよくて暖かいのよ。スーパーも近くにあるし……それよりあんたの方は大丈夫なの? いつまでもコンビニやスーパーのお弁当ばっかり食べてないで、少しくらい自炊しなさいよ……』
『なんかあったら、自分ひとりでどうにかしようとしないで、ちゃんと連絡してくるんだぞ。一応大家さんにはお願いしておいたから……』
ふたりにそろって、同じようなことを何度も注意された。
そうだ。父も母も、もうこの街にはいない。
(――じゃあ、今あそこに〈いる〉のは、誰だ……?)
血の気が引く、というのはこういうことを言うのだろう。僕は一気に体温が下がったような気がした。
〈変質者〉、〈不法侵入〉という言葉が頭の隅を掠めるが、警察は向こう側が透けて見えるような犯罪者でも、捕まえてくれるものなのだろうか。それよりも今日は大学がある。さすがに初日から欠席はまずいだろう。
いやだからと言って、このまま動いてしまってもいいのか? 僕が動いた途端にあの影は、いきなり襲いかかってきたりはしないのか?
ああでも早く支度しないと、初日から遅刻はまずい……。
頭の中で予想外の出来事にパニックになった僕と、冷静にやるべきことを突き付けてくる僕が、互いに牽制しながら自己主張してくる。
結局僕にできたのは、顔を洗うのもそこそこに、その辺に脱ぎ捨てていた服に適当に着替えると、鞄と携帯電話を引っ掴んで部屋を飛び出すことだけだった。
◆
財布は鞄の中に入っていたので、大学には問題なく到着することができた。寝る前にちゃんと準備していた昨日の僕、グッジョブ。
見慣れた構内の景色にようやく肩の力が抜けると、なんだか朝目にしたものが夢だったんじゃないかという気さえしてくる。初めてのひとり暮らし、住んで間もない部屋での生活に、自分では気づかないうちにストレスが溜まっていたのかもしれない。二十歳過ぎてホームシックなんて恥ずかしい話だが、いざ帰りたくなったところで、住み慣れたあの部屋は疾うに他人のものだ。もう帰ることはできないという事実に、心細い思いは否定できなかった。
「よ、春木久しぶり」
教室に向かって歩いていると、後ろから肩をたたかれる。同じ学部の友人である、前畑だった。
「おう久しぶり。休みのあいだ何してた?」
「バイトに決まってんだろ。……ああ、そういやおまえのバイト先潰れたんだっけか」
「ヤな言い方すんなよ。……まあ、そうなんだけど」
高校のときからお世話になっていたバイト先は、近所の個人商店だった。
おばあちゃんがひとりで細々とやっていた小さな店で、正直大手のコンビニなんかとは比較にならない品ぞろえの薄さにふさわしく、客の入りもさっぱりだった。もちろんバイト代も雀の涙程度だったが、孫のように可愛がってくれていたおばあちゃんの人柄の良さと、のんびりした雰囲気が好きで、できることなら大学を卒業するまでは続けたいと思っていた。
けれどおばあちゃんが去年の暮れに、雪道で転んでしばらく入院したのを機に、やむなく店仕舞いすることとなったのだ。
『元々わたしの我儘で続けさせてもらってたようなものだから、しょうがないわねぇ。尚弥くんにはずっと助けてもらって、ほんとにありがとうねぇ』
見舞いに訪れた先のベッドの上で、僕の手を包み込んでくれた、皺だらけの手のひらの温かさは今でも憶えている。
そんな切ない思い出に浸っていた僕に、前畑はあっけらかんとした調子で言った。
「時期的に新しく募集してるとこも多いだろうから、探せばすぐに次のとこも見つかんだろ」
「そうかな。できれば××駅の周辺がいいんだけど」
「なんで××駅? こっから遠いじゃん」
「ああ、言うの忘れてたけど、おれ先週引っ越したんだよ」
隣を歩く友人に事の次第を説明しながら、僕の頭を再びあの影が過ぎった。
カーテンが閉まったままの薄暗い部屋の中で見た影は、なんだか夢の続きのように存在感が軽くて、時間と共に感じた恐怖心も薄れていく。
(案外、帰ったらもういなくなってるんじゃないか?)
一日が終わるころには随分楽観的になっていた僕は、それでも帰宅してすぐに、台所を確認した。――もちろんそこには、何もいない。
「だよなー。やっぱ寝惚けてただけなん――」
浮かれた気分で部屋の奥に転じた視線の先、テレビに向かって座っている(ように見える)影の姿に、僕はすぐさま〈回れ右〉を余儀なくされたのだった。
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