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駅近くのネットカフェでまんじりともせずに夜を明かし、恐る恐る戻った部屋の中。ずっとカーテンを閉めたままで薄暗いそこに、僕は足を踏み入れる。
台所、テレビの前、どちらも何かがいたという痕跡さえもない。
(そうだよ。やっぱり昨日のは何かの見間違いだったんだ)
安堵に緊張を解いた僕の目に映ったのは、壁際で床から五十センチばかり離れた空中に浮かぶ、影だった。まるでマジックのように、その下に見えないベッドでもあるかのような恰好で横たわる影。意味がわからな過ぎて、思わず乾いた笑い声が漏れる。
(なんなんだよ、あれ!? めっちゃこえーよ!!)
影は僕の声に反応することもなく、静かに浮いている。
息を殺してゆっくりと後ずさり、玄関のドアを閉めたところで、僕はダッシュで逃げ出した。なぜ自分の部屋から逃げなければならないのか――そんな理不尽さを感じる余裕もないままに。
とにかくあの影から離れたくて、僕は駅まで戻るとそのまま地下鉄に飛び乗り大学に向かった。朝一の講義でさえまだだいぶ時間があるが、誰でもいいから人がいる場所にいたかった。
大学内の、人がまばらな早朝のカフェテリア。窓に面したカウンター席に落ち着いて、自販機のホットコーヒーをひと口飲む。食道から空っぽの胃にかけてじんわりと温まると、やっと肩から力が抜ける感じがした。
張り詰めていた糸が緩み、同時に鼻の奥がツンと痛みを訴える。
(やば、泣きそう……)
なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。そもそも〈あれ〉はなんなのか。あの部屋にはもう戻れないのか。頭の中はぐちゃぐちゃで、とにかく誰でもいいから何もかもぶちまけてしまいたかった。
けれど都合よく隣で話を聞いてくれるような相手なんて、今ここにはいない。僕がいま縋り付けるのは、手の中の缶コーヒーの温もりだけだった。
ちびちび飲みながら溜息を繰り返す僕の耳に、離れた席の学生がたてる、ノートパソコンのタイピングの音が聞こえてくる。静かな空間に響く遠慮がちなその音は、波立つ気持ちを少しだけ静めてくれた。
やがてコーヒーで程よく温まった身体に、雨音のようにぱらぱらと降り注ぐタイピングの音色。寝不足の僕が睡魔に誘われるには、恰好のシチュエーションだった。
(まだ講義までは一時間以上あるしな……)
テーブルに投げ出した腕を枕に、少しだけのつもりで目を閉じる。そしてそのまま僕は、呆気なく眠りに落ちたのだった。
◆
――…………。
――……キ。
眠りの中、誰かが僕を呼んでいる。
――……ルキ。
知らない声だ。……誰だろう。
――……ハルキ。
でもなんだか優しい声だ。聞いていると嬉しくなるような。
このままずっと聞いていたいな――なんて微睡みながらふにゃふにゃ考えていた僕の肩が、いきなり強い力で揺らされた。
「おい、春木! いい加減起きないと遅刻するぞ!」
「……うぇ?」
寝惚け眼をしばたきながら見上げたそこには、前畑の姿があった。
「え、前畑……?」
「なんだよ、まだ寝惚けてんのか? ったく、いつからいたのか知らねぇけど、俺が見つけなかったらおまえ、昼まで寝てたんじゃねぇの?」
「え、うそ、いま何時……」
「まだ九時前。講義の前に飲み物買おうと思って来てみたら、なんか見たことあるコート着てるヤツいんなぁと思ってさ、近づいたらホントにおまえなんだもん」
けらけらと笑ってミネラルウォーターのペットボトルで小突いてくる。
取り敢えずこいつのお蔭で遅刻は免れたようだ。僕は素直に礼を言う。
「いいって。引っ越したばっかで疲れてんだろ。ひとり暮らしって家ん中のことも全部自分でやんなきゃなんねぇから、大変だよな」
「まあ……うん」
先月までの僕同様に実家住まいの前畑は言った。うちの大学は地元出身者の方が多いので、そのまま親の家から通っている学生は珍しくない。だが前畑の気遣いは、間違ってはいないが当たってもいなかった。そもそも僕は昨日から、まともに自分の家に帰ることもできていないのだ。きっと今日もあの影は僕の部屋にいるのだろう。
「あ~……あのさ、前畑」
「ん、何?」
「今日さ、急で悪いんだけど、お前ん家泊めてくれないかな……なんて」
前畑とは大学に入ってからの付き合いで、一緒に遊びに行くことはあっても、互いの家に行ったことまではない。その程度の友人に急に泊めてくれなんて頼まれても、普通は困るだろう。
断られるのを覚悟で言った僕のむちゃぶりは、けれどあっさりと了承されてしまった。
「俺ん家? 別にいいけど、うちの親共働きだからメシとか期待しても無駄だぞ。まあ多少騒いでもうるさく言わねぇけど」
「え、全然いいよ。泊めてもらうだけで助かるって」
「何だよそれ」
理由を知らない前畑は、呆れたように笑っている。でも一晩でも安心して眠れるというのは、いまの僕にとってはかなり重要なことなのだ。なんなら夕飯を奢ってもいいくらいだ。……なんて思ったけれども、財布と相談して、缶酎ハイとスナック菓子になってしまったのは、情けないのでここだけの話にしておいてほしい。
ふと、夢の中で聞いた声を思い出す。
知らない声だと思ったけれど、あれは前畑が僕を起こす声だったのだろう。このままずっと聞いていたいだなんて、とんでもなく恥ずかしいことを考えてしまった。
前畑とふたり連れだって歩きながら、僕は内心で冷や汗をかく。けれど時間ギリギリに教室に着くころには、そんなこともすっかり忘れていたのだった。
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