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前畑の部屋に泊めてもらった夜は、妙なものを見ることもなく、ぐっすりと眠ることができた。夜更けまでテレビゲームに興じてしまったせいで、寝不足の解消にはならなかったけれど、それでも気分はずいぶんと楽だった。
遅くに帰ってきたおじさんとおばさんは笑顔で迎え入れてくれたし、前畑も「また来いよ」なんて言ってくれた。ありがたいことだが、さすがにそれを真に受けて連泊をさせてもらうほど、僕も面の皮が厚くはない。それに風呂は借りたし、下着も買ったものに替えたけれど、ずっと同じ服で大学に行くというわけにはいかない。パンツみたいに気軽に店で買っていたら、あっという間に僕は一文無しになってしまう。着替えるためにも、一度は家に帰る必要があった。
その日、まだ明るい時間に部屋に戻った僕は、覚悟を決めて玄関のドアを開けた。
そろそろと部屋の中に足を踏み入れる。台所、テレビ、壁際。さっと視線を走らせるが、怪しいものはない。だが安心はできない。あの影は次々と場所を変えている。
久しぶりにカーテンを開けると、午後の陽射しが中に差し込んだ。窓が南向きなのは、この物件のいいところのひとつだ。宙を舞う埃が目に付くほど明るくなった部屋の中は、やけにがらんとして何だか物寂しいくらいだ。得体の知れないものが潜んでいるような気配など、まったく感じられない。
(……でも三回も見ちゃったし、さすがに気のせいにはできないよな……)
いったいこの部屋はなんなのだろう。
あの影はやっぱり幽霊的なものだったりするのだろうか。それじゃあここはいわゆる、事故物件というやつなのか。だがそれにしてはここの家賃は相場並みだったと思う。高過ぎず低過ぎず。普通その手の物件というのは、わかりやすく安かったりするものなのだと思っていたけれど、実際は違うのだろうか。
大家さんや不動産屋だって特に何も言っていなかった。問題のある物件なら隠して売ることもあるのだろうが、一介の学生でしかない僕が聞いたところで、素直に教えてくれるとも思えない。
最悪、引っ越すという手もあるにはあるが、金銭面はともかく、保証人の問題もあることだし、親に黙ってというわけにはいかないだろう。
(引っ越して早々、心配かけるわけにもなぁ……)
明るい部屋の中でひとり、暗い溜息を吐く。……不毛だ。
こういう時はとにかく身体を動かすのが一番だ。少しでも気分を変えたくて、僕はその辺に脱ぎ捨てられたままになっていた服をまとめて洗濯機に突っ込むと、敷きっぱなしの布団を干し、部屋の掃除を始めた。
引っ越しから一週間経っても段ボール箱に入れっぱなしだった荷物をおざなりに片付け、床を雑巾がけする。備え付けの石油ストーブの裏なんかも見てみるが、さすがにまだ埃が溜まるほどではないようだ。電源タップに綿埃が付いたままにしておくと、火災の原因になることもあるから気を付けろと、母親に口を酸っぱくして言われたのを思い出す。
狭い部屋の掃除はすぐに終わり、風呂掃除のついでにシャワーを浴びて洗濯が終わったころには、もう日が暮れかけていた。
(結局今日は現れなかったな……)
買い物に行くのも億劫なので、冷凍食品で適当に済ませた夕飯のあと、特に面白くもないバラエティ番組を見ながら、だらだらと時間を潰す。
普段ならまだ寝るには早い時刻だが、ここ最近寝不足が続いていたこともあり、次第に目蓋が重くなってきた。平和に眠れるなら、それに越したことはない。僕は戸締りだけ確認しようと、玄関に目を向けた。部屋と玄関を隔てるドアには磨りガラスがはまっていて、向こう側の様子がぼんやりと透けて見える。――そのときだった。
ふうっと、暗い玄関の中に浮き上がるようにあの影が現れた。
影はそのままドアをすり抜け部屋の中に入ってくると、しばらく部屋の中をうろうろし、やがて浴室に消えていった。
息を止めたままじっと見つめる僕のことなど、まるで目に入っていないかのような様子は相変わらずだ。けれど影の姿が消えても、僕は動くことができなかった。
あの浴室の中に、今何があるのか。確認する勇気など、とてもなかった。
『!!!!!』
テレビから、お笑いタレントのバカみたいな笑い声が響いて、僕は肩を跳ねさせた。慌てて用意していた布団の中に潜りこみ、ギュッと目を瞑る。明かりもテレビも点けたままだけれど、今は暗いのも静かなのも怖かった。下手に闇の中で無音だと、あの影の気配を探してしまいそうだった。
とにかく早く朝になれと、それだけを念じていた。
あまり遮光性の高くないカーテン越しに、夜明けの気配を感じるようになったころ、ようやく僕はうとうとすることができた。七時にセットした目覚まし時計がうるさく自己主張してくれなかったら、絶対に起きられなかったと思う。
寝不足で痛む頭でのろのろと起き出すと、すぐさま部屋の中をうろつく影が目に入る。できるだけ見ないように、何も考えないように、僕は朝の支度をした。朝ごはんは途中のコンビニで買うことにする。けれどまったく食欲はない。溜息がひとつこぼれて、ああまた幸せが逃げて行ったなんて馬鹿なことをつい思ってしまうほどには、僕の頭も限界だった。
◆
――……ハルキ……。
出席率さえよければあまりうるさく言わない教授の時間、気を失うように熟睡していた僕の耳に、再びあの声が聞こえてくる。
眠りの淵に沈んだ意識に語り掛けてくる、心地よい声。
(あれ……? この講義、前畑も取ってたっけ?)
いずれにしろ、前畑が呼んでいるということは、もう起きなければならないのだろう。
講義をする先生の穏やかな声に重なるように聞こえる、シャープペンシルの芯が紙の上をすべる音、教科書をめくる音、誰かの咳払い。大勢の控えめな気配に満ちたその空間は、今の僕にとって安心して眠ることのできる貴重な環境だ。惜しい気分になりながら、それでも僕は眠りの浅瀬に浮上する。目を開けると、案の定そこには前畑の姿があった。
「やっとお目覚めか?」
「前畑……この講義取ってたっけ?」
「いや、俺は去年の内に単位取っておいたから。ちょうど時間が空いたんで、懐かしくて潜り込んだだけ。あの教授好きなんだよ」
「そっか……」
「まああの人なら、寝てても怒られることはないだろうけど……どうした?」
「何が?」
「いや、顔色悪いっつーか……クマがさ」
そう言って前畑は、自分の目の下を人差し指でなぞった。さすがに見てわかるほど顔に出ているとは思わなかったので、僕は慌てて手の平で顔をこする。そんなことで目の下のクマが消えるはずもないのだけれど。
「もしかしておまえ、眠れてないのか?」
「いやまぁ…………うん……」
「それっておととい急に泊まらせてくれなんて言ってきたのと、関係あったりするのか?」
何て言ったらいいのかわからなくて黙ってしまった僕に、前畑も困ったのか、がしがしと頭をかいている。何だか申し訳なくて、でもあれをどう説明したらいいのかわからなくて、僕たちのあいだに微妙な沈黙が流れる。
「まあ、言いたくないなら無理に――」
――ぐぅ……。
前畑の声に、間抜けな音が重なった。発生元は、僕のおなかだった。
思わずと言ったように前畑が吹き出して、恥ずかしさに顔が熱くなる。……あ、ちょっと顔色よくなったかも、なんて。
「はは、ちょうど昼メシだしな」
「うう……、朝食べてなかったんだから、しょうがないだろ」
「いやダメだろ、そりゃ」
行くぞ、と言って前畑は僕を連れ出した。行先は学内の食堂だ。
混雑した食堂でどうにか席を確保すると、カウンターの列に並ぶ。僕と前畑は、それぞれ日替わり定食のごはん大盛りを頼んだ。普通盛りと料金は同じなので、こっちの方がお得なのだ。
今日のメニューはカツカレーだった。何故かうちの日替わり定食は、金曜日はカレーと決まっている。メニューで単品のカレーライスはあるのだが、定食だとスープにサラダ、デザートまで付くので、金曜日は誰もが定食バージョンを選んでいる。
「ほら、これも食えよ」
席に着くなり、前畑がサラダの小鉢を寄こした。おまえ、ただ単に自分が食べたくないからだろ。
「ニンジンが苦手とか、お子様かよ」
「生のニンジンなんて、ウサギか馬の食いもんだろ。火が通ってるヤツならちゃんと食べるさ」
「おまえは全国のニンジン農家の人に土下座して謝ってこい」
軽口をたたき合いながら食べるご飯は美味い。僕と前畑は互いに、今年取る予定のゼミの話や、おととい前畑の家でやったテレビゲーム、最近動画サイトで見た動画の話などで盛り上がった。
皿の上がきれいになるころには、食堂の混雑も落ち着き、空席が目立つようになった。そのタイミングを見計らったわけではないだろうが、前畑が急に声を潜めて身を乗り出した。
「――で?」
「え?」
「眠れてない理由だよ」
「ああ……」
正直、部屋の中に正体不明の影が現れるなんて話したところで、信じてもらえるとは思えない。けれどここまで心配してくれている相手に、適当なことを言ってごまかすのは不誠実な気がした。前畑なら多分、信じられないことだとしても、頭からバカにするようなことはしないだろう。
そう判断した僕は、この四日間に起こったことを、すべて説明することにしたのだった。
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