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夕食は無難に駅近くのファミレスにした。
習慣でついドリンクバーを頼もうとすると、前畑が「食後のコーヒーならあとで奢ってやるから」と言い出したので、水で我慢することにする。そう言えばアパートに行く前にも似たようなことを言っていた。この辺は詳しいらしいが、行きつけの店でもあるのだろうか。
チーズ入りハンバーグとライスを選んだ僕に対し、前畑はガーリックソースのたっぷりかかったカットステーキに、エビドリアまで頼んでいる。もちろんセットメニューでライスとスープ付きだ。
高校時代は運動部で鳴らしていたらしい前畑は、一八〇を超える長身に見合った、がっしりとした身体つきだ。今はバイトが忙しいらしく、特に運動らしい運動はしていないようだが、それにしてもよく食べる。
生野菜が嫌いなくせに、そこまででかくなれるなんて、好き嫌いはないのに一七〇どまりの僕としては、恨めしい――もとい羨ましい話だ。
食べる量は違うはずなのに、僕と同じタイミングで食べ終わった前畑は、コップの水を飲み干すと「食ったな」と腹をさすった。おやじ臭い仕草も、前畑みたいな体育会系イケメンがやると様になる。まあ残念ながら、この場に黄色い声を上げる女の子はいないのだけど。
店の外に出ると、辺りは既に日没後の薄暗さに包まれていた。帰宅時間に重なったらしく、地下鉄の駅から次々に人が出てくるのが見える。そのまま隣接したスーパーに入る人、バス停に向かう人、徒歩で家に向かう人などを横目に、前畑は人通りの少ない小路に入っていった。まだここにきて十日ほどの僕は、足を踏み入れたこともない場所だ。
「さっき言ってた、食後のコーヒーってヤツ?」
「ああ」
「この辺はまだ来たことないや。でもあんまり店があるようなとこじゃないな」
「まあな」
僕のあけすけな言葉に、前畑が苦笑する。
「本人も儲けるつもりなんてまったくないみたいだからなぁ。普通ならとっくに潰れてもおかしくないんだろうけど」
前畑の口振りだと、流行っているわけではないようだ。きっとこんな風に人に連れられて行くのじゃなければ、店があることさえ気づかないかもしれない。
けれど前畑自身はよく通っているようだし、わざわざ友達を連れていくぐらいなのだから、そんなにおかしなところでもないのだろう。……多分。
信号のない交差点を渡ったところで、前畑は足を止めた。
「よし、着いた。ここの二階なんだ」
「へえ……。外からだとちょっとよくわからないかも」
そこにあったのは、四階建てのマンションだった。
一階と二階の端が店舗形式になっており、二階の店に行くには、らせん状になった外階段を上っていくことになるらしい。店の入り口は階段の奥にあるので、僕のいる場所からだと、辺りが暗いのもあって店があること自体気づきにくい。確かにこれでは、一見の客はまず呼び込めないだろう。
因みに一階は美容室になっているらしく、明かりのついた店内にはカット中の女性客と男性美容師の姿が見えた。こちらは普通に流行っているようだ。
前畑のあとについて、甲高い足音を立てる鉄製の階段を上る。たどり着いた扉には色ガラスがはまっていて、中の明かりがわずかに透けて見えた。一応営業中ではあるらしい。
ちょうど目の高さに、アルファベットの書かれたプレートが掲げられている。〈Luna〉――確か「月」の意味だった気がする。この店の名前だろうか。
前畑がドアを引くと、カラン、と軽やかな音が鳴る。目の前のでかい背中に阻まれて中は見えないが、微かに香ばしい匂いが漂ってきた。
「いらっしゃ――なんだ、また来たのか」
「ちょっと用があってさ、こっちに来たから」
「大学が始まるから、しばらくは来ないんじゃなかったのか」
「事情が変わったんだよ。今日はひとりじゃないんだ」
店の中から聞こえた声に、前畑が返している。落ち着いた低い声は、明らかに僕たちよりも年上の男の人のもののようだ。それなのにただの客と店主のやり取りとは思えない気安い口調。いったいどういう関係なのだろう。
「ほら入れよ」と前畑に促されて、彼の横に並ぶ。そこでようやく僕は店の中を視界に入れることができた。思ったよりも狭い店内は、テーブル席が二組とカウンター席が四つしかない。これで採算が取れるのかは謎だ。
そしてカウンターの奥には、マスターらしき男の人。ほかにお客も店員の姿も見えないので、さっき聞こえた声はこの人だったのだろう。
「春木、この人がこの店のマスターのカオルくん。カオルくん、こいつが前に話した、大学で同じ学部の春木」
「あ、どうも、春木です」
「ああ、よろしく。」
前畑が口にした「カオルくん」という可愛らしい語感にそぐわないその姿に、失礼ながら軽い違和感を感じてしまう。癖のある長めの髪を後ろでまとめ、顎のラインに沿って無精ひげがまばらに生えたその人は、どう見ても僕たちみたいな学生が気軽に「くん」呼び出来るような相手ではない。
けれど彼は前畑の気安い呼びかけを気にする素振りも見せなかった。その理由は、僕が訊く前に当のふたりによって明かされた。
「いつも裕二が迷惑をかけているみたいですまないな」
「なんだよ迷惑って。別にそんなことねぇよ。なあ、春木?」
「え? あ、はい、別に迷惑なんて、全然」
ほらな、という顔で唇を尖らせる前畑に、器用に片眉を上げてみせるカオルさん。
「俺とカオルくん、従兄弟なんだ。母親同士がきょうだいでさ、仲がいいから俺たちもガキの頃からよく遊んでて。まあ年は十歳以上離れてるから、こんな風に保護者面されることもあるんだけど」
「へぇ……」
なるほど、それで「カオルくん」に「裕二」なのか。従兄弟同士なら、名前で気安く呼び合っていてもおかしくはない。僕は前畑とカオルさんの姿を見比べた。
「こんなむさ苦しい見た目なのに、フルネームは『月舘薫』なんて言うんだぜ。ミスマッチにも程があるよな」
前畑が宙に指を滑らせながら、カオルさんの名前にあてる漢字を教えてくれる。確かに某有名歌劇団の芸名に使われていてもおかしくない、雅な字面だ。名前だけから連想すると、雰囲気のある嫋やかな麗人――といった印象だ。間違ってもこんなひげ面のおっさんが名乗っていい名前ではない。
(けどな、前畑――)
恐らく前畑の十年後は、カオルさんとそっくりになっていることだろう。太い頸と眉毛も、筋肉質な身体つきも、硬そうな黒髪さえも、ふたりは兄弟のようにそっくりだ。傍から見ても、従兄弟という血のつながりを感じさせずにはいられない。
そんなことを思いながらふたりを見ていたら、カオルさんには通じてしまったのか、苦笑いを返された。初対面の相手にとんでもなく失礼なことを考えていた自覚はあるので、僕は思わず赤面する。
「ほら裕二、いつまで春木くんを立たせたままでいるんだ。早く座れ」
「あ、悪い、取り敢えず座れよ、春木」
「うん、ありがと。えっと、お邪魔します」
もしかして気を使わせてしまったのだろうか。なんとなく居た堪れない気分になりながら、僕は前畑に言われるままにカウンターの椅子に腰かけた。
僕たちが座ったのを確認すると、カオルさんは手際よくコーヒーを入れる準備を始める。ドアが開いたときから感じていた香りが、一段と強くなった。
コーヒーなんて自販機の缶入りしか馴染みのない僕としては、こんな風に本格的に淹れられているのを見るだけでなんだか緊張してしまう。味の違いなんて全然わからないのに。
「今日はお客さん来たの?」
「おまえに心配されるまでもなく、それなりにはいるさ」
「いや、俺会ったことないけど」
遠慮のないやり取りを聞くともなしに聞きながら、僕の目はカオルさんの手元に釘付けだった。大きな手が迷いのない動きで何かを作り上げる様に、思わず見入ってしまう。
フィルターの中の粉にゆっくりとポットのお湯を注ぎ入れながら、カオルさんが言った。
「それにしても、おまえがここに友達を連れてくるなんて珍しいな」
「あ~……、だから用があったんだって」
前畑が言い淀む。確かに事情を知らないカオルさんに説明するのは、難しい。眉を顰めるカオルさんに、僕の方から障りのない程度に伝えることにした。
「あのおれ、家の事情でこの春からひとり暮らしをすることになって。ちょうどこの近くに越してきたんで、前畑が遊びに来ることになったんです」
噓は言っていない。理由としてもありふれているし、おかしなところはない筈だ。カオルさんも特段不審に思うことはなかったようで、小さく頷いている。
「そうか。君たちの大学からだと距離はあるが、地下鉄一本で行けるんだったな」
「はい。二十分もかからないんで、結構便利なんです」
「まあ前のとこが良すぎたわけだしな」
「前のとこ?」
首を傾げるカオルさんに、前畑が説明する。肩を揺らして笑いながら、カオルさんは僕に同情してくれた。
「まあこれもいい経験だ。ご近所さん……っていうほどではないかもしれんが、同じ地区に住むよしみだ。何かあったら遠慮なく声をかけてくれ」
「ありがとうございます」
「おう、頼むぜカオルくん」
「なんでおまえが偉そうなんだよ」
店の中が、温かな笑いに満ちる。
何だかすごく落ち着く雰囲気だ。前畑の従兄のお店だからというのもあるのかもしれないけれど、多分きっとカオルさんの鷹揚な佇まいに、人を安心させる何かがあるのだと思う。
アパートからも近いし、これから時々お邪魔させてもらってもいいかもしれない。
あの部屋に住んでから、頭を抱えたくなることが続いていたが、楽しみもひとつ見つけることができた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ふわふわとしたいい気分で、僕はカオルさんが淹れてくれたコーヒーに口を付けたのだった。
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