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淹れたてのコーヒーのほかに、カオルさんお手製のレアチーズケーキまでご馳走になった僕と前畑が店を出たのは、時計の短針がちょうど八と九の真ん中を指したころだった。
春とは言えまだ肌寒い夜の住宅街を、僕たちは歩いて駅前まで戻る。帰宅ラッシュが過ぎ人もまばらなスーパーで、軽いつまみとアルコール飲料をいくつか購入し、アパートに向かった。
遠くからその姿が目に入るところに来ると、いやでも僕の足取りは重くなる。さっきまでのいい気分はどこへやら、急に口数が減った僕を気にしてか、前畑がやけに陽気な声で話しかけてきた。
「よかったらさ、たまにカオルくんの店に行ってやってくれないか」
「そりゃ、家も近いし雰囲気もいい感じだし、おれひとりでも行ってみたいとは思ったけど、……なんで? お客さん少ないから?」
僕ひとりが通ったところで、大して売り上げに貢献できるとも思えない。単純な疑問を口にすると、前畑は少し口籠もった。
「いや、そういうわけじゃなくてさ……」
「うん」
「あ~……実はさ、あの店あんなんでも、前はバイトの人がいたんだよ」
「へぇ……」
意外だ。ちゃんとお給料もらえてたんだろうか。
「けどさ、ちょうど一年くらい前に辞めちゃって。それからカオルくんひとりでやってるんだ、ずっと」
「そうなんだ」
「だからさ、多分寂しがってるんじゃねぇかな」
「うん……?」
前畑のしんみりとした言葉に相槌を打ちつつも、僕の頭には疑問符が浮かぶ。
一度会っただけの人を安易に決めつけるのはよくないことだけれど、正直カオルさんはそんなに感傷的な人には見えなかった。それに、前畑の言う通りだとして、どうしてそこに僕が関わってくるのか。今日会ったばかりの僕が訪れたところで、カオルさんの寂しさを埋めることなど、できるはずがない。
けれど前畑の真意を訊く前に、僕たちはアパートに到着してしまった。
無言のまま階段を上り、〈203〉と書かれたドアの前に立つ。僕は鍵を開けると、深呼吸をひとつして、ドアを開けた。当然ながら、中は真っ暗だ。
パチリと廊下の明かりのスイッチを押す。何もない。部屋に続くドアには、磨りガラスに僕と前畑の姿がぼんやりと反射して見えている。
「大丈夫だって」
「うん……」
前畑の言葉に背中を押されて、僕は足を進める。再びドアを開き、部屋の明かりを点け、眩しさに目を細めながら見回した部屋の中――そいつはいた。
壁際――足を伸ばして腰を落とした姿の影が、そこにいる。随分中途半端な体勢だ。いくら宙に浮いているとはいえ、辛くないのだろうか。現実逃避に、思わずいらない心配をしてしまう。
「春木……?」
「あ、前畑、あそこ。あそこにいる……!」
前畑の窺うような声に、僕は我に返った。慌てて、影のいるところを指し、訴える。
「え……? どこに?」
「どこにって……。あそこだよ、あの壁のとこ! いるだろ? なんか座ってるみたいな感じで!」
「…………いや、なんもねぇけど……」
けれど前畑から帰ってきたのは、予想外の反応だった。
僕がいくら説明しても、前畑は戸惑った様子で、影のいる壁と僕のあいだに何度も視線を往復させるだけだ。
(なんでわかんないんだよ!)
前畑が僕を揶揄って悪ふざけをしているのか。いや、それはないだろう。ノリがよくて多少強引なところはあるが、面白半分で真面目な相手を揶揄うようなことはしないヤツだ。
伝わらないもどかしさに、次第に僕の声が荒くなる。
「だから! あそこにいるんだって! なんで見えないんだよ!」
「春木、わかったからいったん落ち着けって。な?」
宥めるように前畑が伸ばしてきた手が、適当にあしらわれているように思えて、僕は苛立つ。その逆立てられた感情のままに、僕は伸ばされた手を思い切り払いのけた。
「……!」
パシン!
乾いた破裂音に息を呑んだのは、僕か前畑か。恐らくふたりともだったのだろう。
けれど激しく狼狽えたのは、僕の方だった。
「あ……、あ……」
「春木……」
「前畑……、あ、ごめ、おれそんなつもりじゃ……」
困ったように眉を寄せる前畑に、僕はただ、ふるふると首を振ることしかできない。
(何やってんだよ、おれ。心配してくれてる友達に――)
(でも前畑、あの影見えないみたいだった――)
(やっぱりあの影って、幻覚とかおれの妄想ってことなのか――?)
(でもなんでいきなりここに来てから、あんなの見るようになったんだよ。おれ今まで幽霊とか見たことなかったのに――)
(いや、っていうか、おれ前畑に噓ついてるって思われてるんじゃ――!?)
後悔、不安、疑念、焦燥――
頭の中は言葉にならない感情でぐちゃぐちゃだった。
何か、何か言わないと――
そう思えば思うほどに、うまく取り繕う言葉も思い浮かばず、顔が熱くなる。
「春木……」
戸惑ったような声に顔を上げると、目の前の前畑の姿は歪んだガラスを通したようにぼやけて見えた。
「泣くなよ。俺別におまえが噓ついてるなんて思ってねぇから」
「…………え?」
思わぬ言葉に、僕は目をしばたたいた。その拍子にぼろぼろと零れ落ちたものに、驚く。前畑の言葉どおり、僕は泣いていた。昂った感情が押し出したものを、慌てて袖で拭う。
逆ギレした挙句に泣くとか、サイアクだ。マジで子供だ。
「悪かったな」――羞恥で顔を上げられない僕は、またもや黙って首を振るしかできなかった。
しばらくして僕が少し落ち着いたころ、気まずい沈黙に区切りをつけるように、前畑がぼそぼそと言った。
「あ~…………なんか、悪かったな。あんま役に立てなくて」
「いや、おれの方こそ、ごめん。キレたりして……」
前畑は何も悪くない。見えないものを見えないと言っただけだ。それなのに勝手にバカにされた気になって相手を詰って、これじゃ本当に癇癪をおこした子供みたいだ。
あの影のことをわかってもらえなかったのは確かに残念だけど、それはもうしょうがない。
頭ごなしに否定されたり、噓をつくなと怒られたり、心の病気だなんて決めつけられなかっただけ、多分全然ましなはずだ。
「でもおれ、前畑が言ったようにホントに噓なんかついてないし、妄想だって言われても証明の仕様がないけど……」
「わかってるって」
苦笑いを浮かべる前畑の肩越しに、相変わらず中腰の影が見える。
僕たちの騒動などまったく関係ないとばかりなその姿に、何だかもう、溜息しか出なかった。
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