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床を這いずる人物が誰なのかがわかったら、シャンティが次にやることは一つだけ。亡き両親からもっとも厳しく受けた教育───挨拶だった。
「あの……はじめましてシャンディアナ・フォルトと申します」
「いえ、こちらこそ。はじめまして。セモンド・ヨーシャです。こんな無様な形をしておりますが、爵位は伯爵でございます。ですが、どうぞ呼び捨てで結構でございます。あと、この度は我が愚娘の代わりに、花嫁の代役を引き受けていただき、なんとお礼を申し上げれば良いのやら……。本当にありがとうございます」
再び床に額を擦り付けたお貴族さまの言葉を聞いて、シャンティは伯爵というのは総じて当日にトンズラしたがる生き物なのかとふと思う。
けれど、ここに逃げきれなかった御仁がいらっしゃるので、それは口にしない。
ただ、お貴族さまは未だに這いずり状況。とても嫌な予感がする。
僅かな好奇心と、かなりの不安ゆえ確認を取らなければと、シャンティは恐る恐る問いかけた。
「……い、いえ、そんな。ちなみに、ヨーシャ様は既に薄水色のお薬をお飲みに?」
「は?へ?……いえ、ただの自然現象、いわゆる、腰が抜けただけでございます。大丈夫です。挙式開始までには、歩けると思いますから」
この命に代えても。
そんな決意を前面に出しながら、ヨーシャ卿はにっと口の端を持ち上げて、シャンティを見つめた。
無論、シャンティの顔は見事に引きつる。
「……そうですか。でもそれ以前に私、諸々気になる点があるんですが───」
と、シャンティはヨーシャ卿のキメ顔を無視して、ここに来る間中、ずっと抱えていた懸念を口にした。
足腰の立たない状態で死地へ向かおうとする伯爵さまの出鼻を挫くような真似をするのは申し訳ないと思う。
けれど、聞ける相手がこの人しかいなかったのだから仕方がない。
さて、シャンティが抱える不安要素は、残念ながらそれを理由に結婚式を中止できるものではなかった。
そして、こんなふうに払拭させられてしまった。
まずギルフォードとヨーシャ家の結婚は、なんと2ヶ月前に決まったものだった。
シャンティの婚約期間は半年足らず。それすらスピード婚だというのに、もはや疾風婚である。
というわけで、2人の結婚を知るのはごく限られた者のみということ。
ちなみにギルフォード側の参列者はほぼ軍人。両親も参列しているようだけれど、実は花嫁とは今日が初対面らしい。だから花嫁の顔など、ぶっちゃけ誰も知らなかったりもする。
そんでもって花嫁側。
こちらは式を執り行う場所が軍の小さな教会ということで、参列者の人数が制限されている。なので、ごくわずかな親族のみしか参列していないということ。
ちなみに花嫁側の参列者には友人はいない。その理由は、花嫁の性格に少々問題があったから。だ、そうだ。
という、ある意味都合の良い現状を聞いてしまったシャンティは、先に立ち上がることができたヨーシャ卿の妻の手によって、乱れた髪を整えられる。
ついでに「こんなふうに娘にやってやりたかった」という嘆きも一緒に頭上から降ってくる。
シャンティとて自分の母親に花嫁姿を見せたかった。
けれど、見せたかったのは実の母親で、他人の母親ではない。だからとても複雑な思いを抱えている。
そんな様々な感情がせめぎ合った結果、鏡に映るシャンティの顔は見事に無の表情だった。首から上と下があまりに違いすぎて大変シュールである。
そんな自分を他人事のように見つめていたら、あっという間に逃げた花嫁のお古であるヴェールを被せられ、これまたお古のブーケを手渡される。
そしてようやっとヨーシャ卿も、生まれたての小鹿のようにプルプルと立ちあがることができた。
そうすれば、まるで立ち聞きをしていたかのようにタイミング良く扉を叩く音が聞こえる。次いで施錠が外される音も。
「では、教会までご案内します」
扉を開けて穏やかにそう告げたドミールは、相も変わらず目は笑っていなかった。
ドミールを先頭に、シャンティ達は教会へと向かう。かなり急ぎ足で。
シャンティは片手にヴェールを掴んで、もう片方はブーケを持って。ヨーシャ卿もまだおぼつかない足取りの為、その奥方が必死にそれを支えている。
前を歩くドミールは、後ろの3人がまともに歩くことができていないことに気付いている。けれど気付かないフリをする。なぜなら、予定時刻が予想よりも、はるかに過ぎているから。
「───……なるほど。この裏道は教会と繋がっているんですな。そして私の首も繋がった。皮一枚だけれど……なんてな。ははっははっ……」
場を繋ぎたかったのか、それとも、これから始まるミッションに緊張しすぎているのかはわからないけれど、色んな意味で笑えないし面白くない冗談が後ろから聞こえた。
シャンティの心は更にダメージを負った。肩もがっくり下がっている。
けれど、そんなクソが付くほどつまらないことを言ったヨーシャ卿の妻は夫に向かって「あらあら、あなた、ひねりが足りないですわよ」とダメだしをする。
無論、シャンティは無視をする。ドミールの足も止まらない。
そして、教会の敷地に入るとドミールはヨーシャ卿の妻を親族席へと案内するため姿を消した。「逃げるなよ」そう目でしっかり脅しをかけて。
残されたシャンティとヨーシャ卿は、既に観念しているので無言で教会の扉まで移動する。初対面だけれど、なぜか息が合っている。
それはギルフォードの恐喝によってここにいるという共通点があるから。
だから二人は親子ほどの親密さはないけれど、妙な連帯感はある。
「では、シャンディアナ嬢、こちらに腕を」
「……はい。失礼します」
待たせたら死があるのみ。
互いにそう心の中で呟き、腕を絡ませて教会の扉が開くのを二人はじっと待った。
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