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事と次第によっては、我が身の貞操を守るために脱出しようと決意してみたが良いが、ここはディラス邸。初めての場所。アウェイもいいところだ。しかも軍人相手に逃走するのはどうあっても不可能だ。
退路を断たれたシャンティに残された手段はといえば、胸元で手を合わせて神に祈るだけ。
でも、よくよく見れば、貸してもらえたこのネグリジェ、妙に生地が薄い。
肌が透けるほどではないが、意識した途端に寒さを覚え、シャンティは苦し紛れに前衣をぎゅっと寄せた。
それをギルフォードは無言のままじっと見つめている。
まるで獲物を狙う猛禽類のような眼差しに、シャンティは知らず知らずのうちに、お尻をもぞもぞと動かし、距離を取ろうとする。
「どうして逃げるんだ?」
「近いっ。とにかく、近いからっ。もう少し離れ───」
「馬鹿なことを言うな」
誰が馬鹿だっ。っていうか、この人、本気で約束を破る気じゃなかろうか。
「ほら、離れるな。こっちに来い」
ギルフォードは懐かない仔猫を捕まえるような慎重な手付きでシャンティの腰に手を回す。
そして膝と膝が触れる距離まで引き寄せると、もう片方の手を器用に使い、ガウンを脱いだ。
衣擦れの音がやけに大きく響く。ギルフォードの濃緑色の髪がシャンティの前髪にそっと重なる。
「……ひぃ」
硬直したシャンティは南無三と心の中で唱えて、ぎゅと目をつぶる。
淑女が持つ全ての知識を総動員して考えても一つしかない。
お願い痛いのはヤメてっ。いや違う、無理矢理はヤメて。いやいや違うっ。何故にやること前提?!それはイカンっ。受け入れちゃマズイでしょ!?
と一人ツッコミをしてる間に、肩にふわりと何かが乗った。微かにムスクの香りがする。
恐る恐る目を開ければ、ギルフォードが自身のガウンを掛けただけだった。
そしてあまりにも自然な手つきで、頬を撫でられる。
「やっぱり寒かったか?」
「へ?」
暗がりでも、彼の表情がくっきりとわかるほど近くで、二人は見つめ合う。色気は抜きで。
「初夏とはいえ夜は冷える。なのに君のガウンを用意してなかったのはこちらの不手際だった。急ぎ用意するが、今日は私ので我慢をしておくれ」
申し訳なさと労りが混ざった声が、シャンティの横髪を微かに揺らした。
「……はぁ」
間抜けな声を出すシャンティとは裏腹に、その瞳を覗き込むギルフォードの瞳は、なにやら常夏の熱気を孕んでいる。
安心したのも束の間、シャンテは突然降りかかった色気に、息苦しさを覚えてしまう。
「……ギルフォードさま」
「ギルだ」
今度は耳に熱い唇が触れ、吐息が注ぎ込まれる。
「……ギルさん、あの……話が違います」
「話?まだ何の話もしていないが?」
「ん?」
硬直していたシャンティは、予想外の言葉に、ようやく少しばかり自我を取り戻した。
そして、パチパチパチパチパチパチと高速で瞬きを繰り返しながら、ギルフォードを見つめる。
あまりに近すぎる彼は、良く見ても見なくても、ほんのりと目の縁が赤い。でも泣いているわけではない。
この表情、見たことがある。祖父がしこたま酒を飲んだあとの顔だ。
つまり酔っ払いと、欲情を……か、か、勘違いしていた?!
てっきり貞操の危機だと、思い込んでいたシャンティは自分の想像力の豊かさに、羞恥を覚える。無論、首まで真っ赤になる。
そんなシャンティをギルフォードは鼻の先が擦れそうなほど至近距離で、覗いている。おもしろ可笑しく。
ただ肩を小刻みに震わせたのは、一瞬のこと。すぐに思わぬ行動に出た。
ギルフォードはシャンティの頬に触れていた手を離したと思ったら、なぜか無言で自分のガウンのポケットに手を突っ込んだ。
ちなみに今、それはシャンティの肩に掛かっているので、彼女のものと表現した方が正しかったのかもしれない。いやそれすらきっとシャンティはクソが付くほど、どうでも良いと思っているだろう。
それくらいシャンティはギルフォードの手に釘付けだった。
正確にいうなら、ギルフォードのガウンのポケットから取り出されたものに釘付けだったのだ。
ギルフォードの手に握られているのは、薄水色の液体が入った小さな小瓶。
見覚えがある......どころか、一生脳裏に焼き付いて離れない───四肢の筋力を根こそぎ奪う謎の劇薬だ。
それをこのタイミングで取り出すとは如何に!?
いや待て、動けない花嫁犯して何が楽しいんだ!?
え、そういう趣味の持ち主?それともこれが軍人流!?
いやいやいやいや、待て待て。またやること前提の思考になっているけど、違うでしょっ。おいぃー!!!
と、シャンティは頭の中で叫んだ。いや取り乱すあまり、多少は口に出したかもしれない。
なのにギルフォードは、ちょっとだけ眉を上げただけだった。
シャンティは平民だ。一般人だ。平凡などこにでもいる人間だ。
だから読心術なんて覚えがないので、こんなわずかな仕草でギルフォードの思考を読むことなんてできやしない。
ただギルフォードの手は相変わらずしっかりシャンティの腰に回されている。だから情けなくもあわあわと怯えることしかできない。
カタカタと小刻みに震えながらじっと、薄水色の液体を見つめること数秒。
ギルフォードは片手で瓶の蓋を開ける。
そして、シャンティに───ではなく、ギルフォード自身がそれを口に含んだ。
「......へ?」
シャンティは、ぽかんと口を開けながら、ギルフォードの美しい喉仏が上下に動いてそれを嚥下するのを呆然と見つめることしかできなかった。
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