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その人は二階席の端っこに私を座らせ、何も言わずに隣に座りおもむろに煙草をくわえ吸い始めた。吸いながらあくびをしている。無精髭を生やした顔は日焼けしていて精悍な顔つきだった。
お礼を言わなきゃと濡れていた頬の涙を手で拭おうとした。
「お前、香港、初めて?」
見ると、男がこちらを見つめている。
黒目の大きい綺麗な切れ長の目に
心臓が跳ねた。
「…はい」
本当のことをこの人に言う必要はない。
6分間だけ乗船するだけの間柄だ。
その人はニヤッと笑った。
バレたのかとドキッとした。
「そうだろうな。
こんな悪天候になるってわかってて
こっから夜景観ようなんてバカは珍しい」
思わずムッとしたら、
その人はおかしそうに
私の方に身を乗り出して来た。
「な、うち、寄ってく?」
う、ち?!
この人もナンパだったんだ、と身構えた。
彼は上着のポケットから私に差し出してきた。指先は何かを摘んでいて、それは一枚の黒くて白字でアルファベットと数字の並んだスタイリッシュな名刺だった。
《Hearts DJ SKY》
「俺、SKY。このナイトクラブで働いてる。
一晩だけおいで?
何かあったのかわかんないけど、
俺がその涙、吹き飛ばしてやる」
そう言って彼は白い歯を見せて笑った。
キザなセリフには似合わぬ少年のように
人懐こい笑顔だった。
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