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これは比喩だ。
ただの比喩表現であって、夢や幻なんかじゃない。
しかし、俺の目に確実に映っているのは夢と現実の境目が分からない、溺れていく感覚。
ゆっくりと開かれた彼女の瞳が、キラキラと光を反射する水面のように見えて。かと思えば、さきほどまで煩わしいほどうるさかった周囲が急激に変化を始める。
こぽり。こぽり。
水中に沈むような感覚。
幾重にも重なる気泡が視界を一瞬にして染め上げる。
押し寄せる。
溺れる。
人が。
波が。
押し寄せる。
巻き込まれる。
引き込まれる。
雑然とした空気が透き通る。
息ができないほど深く沈んだ自分を取り巻く空気。
こぽり。こぽり。
吐息が気泡とかわる。
彼女の瞳が。
自分の視界が。
世界が一瞬にして水の底に沈む――。
なんだっ……なんだっ!? これ!?
息が続かない。
動悸が激しくなり、めまいがし始める。
急激に自分の足元がふらつき、座っていることも忘れて視界がグラリと揺れる。
恐ろしい感覚に急激に引き込まれ、パニックになる俺の手をぎゅっと握りしめる温かさに、ハッと気づかされて。
「大丈夫?」
彼女の静かな問いかけが響く。
こぽっと吐息が気泡となって天井に消えていく。
その瞬間、あっと言葉を呑み込んだ。
――息が出来る。
その状況にようやく落ち着いた俺は彼女を見つめ、そしてゆっくりと周囲を見回せば。
雑然とした空気が漂う駅構内のはずなのに、なぜか静まり返り、自分と彼女の時間だけがゆったりと進んでいる事に気が付いて。
気持ちがふわふわと水の中で浮かんでいるようだ。
苛立ちや戸惑いが嘘のように静まりかえる。
耳が可笑しくなったのか、さざ波のような水がぶつかる音が聞こえる。
人の声が聞こえない。喧騒とした足音さえ消えている。
「……なん、だ……これ? なにした?」
「え? なにもしてないよ?」
きょとんと聞き返してくる彼女の瞳は、相変わらず光を乱反射させている。
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