【第1章】西城縁という女

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客足が遠のけば、お前たちがここで金を払って飯を食えと、さも当然のように店長が命令する。 まかないがあるのに、なぜ金を払って自分達が補てんしなければいけないのか、当たり前のように抗議するが、抗議を上回る頭ごなしの怒鳴り声で、気の弱いバイト何人かは言いなりになってしまう事さえあった。 店は殺伐と、ピリピリとした空気をただよわせるようになってしまった。 前店長時代から居る俺は当初こそ、現店長のやり方に抗議し、バイトに対して頭ごなしに怒鳴るのをやめるよう苦言したが、店長はそれを鼻で笑って一蹴する。 「準社員なんてな。いつだってクビを切れるって、わかってないのかよお前」 その言葉に何も言えなくなったのは、自分の立場の弱さを理解していたからだ。 就職難の末にやっとかじりついた営業職は、不景気の波に煽られた会社倒産と言う言葉によっていとも簡単に取り上げられた。 なんの資格も持たない自分が次に就職するまでのつなぎとして飛び込んだバイト先。前店長に気に入られて、本社に掛け合ってもらってようやくつかんだ準社員という立場。 この職は天職だと思っていたし、苦労もあるが自分を慕うバイトは可愛い。長い間、この店に尽力を注いできたと言っても過言ではないのだが、そのたった一言で自分の立場がこれほどまでに脆いものだと再確認させられた。 傲慢な店長に(こうべ)を垂れて、謝罪しなければならない悔しさで、掌に爪の痕が残る。口を噤み、バイト達にも同じ忍耐を強いる事を謝罪し、けれどバイト達に投げかけられた視線は酷く冷たく落胆したもので。 いつの間にか自分は保身に走りだした。 お前たちにとっては小遣い稼ぎかもしれないが、俺にとっては生活がかかっている。 そんな言い訳を頭の中で繰り返し、店長の横暴な態度を見て見ぬふりをするようになってしまった。 店長の態度に怯え、しびれを切らせて辞めていくバイトやパートが何人もいた。 ひたすらすりたくもないごまをすり、店長のご機嫌を伺い、バイトの機嫌を伺い、自分もいつしか怒鳴るようになっていた事にも気づかない。怒鳴り声が怒鳴り声を呼び、殺伐とした空気がますます凍てつく中、あれだけ楽しいと思っていた仕事が辛いと思えるまで時間がかからなかった。
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