9人が本棚に入れています
本棚に追加
アンラッキーストライク
煙草の煙と嘘は一緒。口から出るなり消えていく。
「僕っていう僕は嫌い?」
「別に。いいんじゃん、一人称くらい好きにしたら?それが一番らしいって思ってんだろ」
ぶっちゃけ変な女だと思った。でもそれを言わないだけの慎みが俺にもあった。
そう聞かれたのは付き合い出してまだ一週間かそこらの頃で、俺は彼女の部屋に入り浸るようになっていた。理由は簡単だ。バイト先に近くで行き帰りに寄りやすかったから、歩いて二分の所にコンビニがあったから。
ファミレスのバイトが終わる頃、コンビニスイーツを袋に詰めてアパートのドアを叩くと、彼女は迷惑と喜びを足して割った表情でむかえてくれたっけ。
なんで自分のこと僕っていうのと、最初に聞いたのは俺だ。
サークルの飲み会でたまたま席が正面になった。店は全席禁煙で煙草が喫えず、禁断症状でイライラしていた。他の席は盛り上がってる。
ジョッキビールやツマミのお代わりが次々運ばれる中、向かいに座った小柄な女はひたすらカルーアミルクをなめていた。場慣れしてないのは一目瞭然だ。
新歓コンパなんざ今の時代は死語だ。もとから引っ込み思案なのか、周囲の喧騒とは裏腹にちびちびと俯き加減で酒を飲む様子に同情して話題をさがすも、初対面も同然の女の子に振るネタをひねりだすのは難しく、やっとの思いで出たのが「なんで自分のこと僕っていうの?」と、あんまりな質問だ。
彼女は「あ~……」と気まずげに言葉を濁して目を泳がす。
当然だ、新歓コンパでたまたま前の席になっただけの男が自己紹介時の一人称にツッコミを入れてきたのだ。
内心うぜえなほっとけよと思ったに違いない微妙な笑顔に、俺は早くも後悔し始めた。
もっとマシな質問いくらでもあるだろ、たとえば犬と猫どっちが好きかとか家族構成とか。
「え~と……キャラ付け、かな」
彼女はコップをひねくりまわして律義にこたえてくれた。
それからなんとなくメアドを交換し、なんとなくだべるようになり、なんとなく二人でいることが多くなった。どっちが先に恋に落ちたのか実の所わからない。
一人称僕がキャラ付け。痛い女だ。
あの時ちょっと引いたでしょとあとから言われ、ベランダで煙草を灰にする俺は頷くっきゃなかった。
どっちでもいい。僕でも私でも本質は変わらない。
彼女は中学の頃から僕だった。
当時好きだった漫画のキャラの影響なんだとベッドの中でこっそり打ち明けてくれたのは随分あとになってからだ。
「かっこよかったんだよね、我が道を行くって感じでさ。まわりに流されないボーイッシュでスレンダーな子だった」
ベッドに頬杖付き、当時夢中だったキャラを回想する横顔は子供みたいに輝いていた。
「痛い子扱いで仲間外れにされたこともあった。んで一時期やめたの、フツーにアタシってゆってた」
「ゆってたんだ?」
「そ。でもなんかしっくりこないでさ……んで大学入ったのをきっかけに戻したんだ。大学デビューだよ」
「日本語間違ってね?」
「そのうち黒歴史になるかもしれないけどね。いいじゃん、僕っていう僕わりと好きっしょ。もう知ってんだろうけどこー見えて結構ガサツで男っぽいのよ」
笑って付け加える表情は屈託ない。俺はもう一人称僕が痛いとは思わなくなっていた。それは彼女を彼女たらしめる彼女らしさの一部で、かけがえのない要素だ。今度は彼女が不思議そうに聞く。
「僕もずっと気になってたんだけど、聞いていい?」
「何?」
「煙草喫いはじめたきっかけ」
好奇心に目を輝かせて見上げてくる彼女の隣で新しい一本を咥え、わずかに赤らんだ頬を悟られないよう呟く。
「漫画の影響」
「嘘!マジで?」
「主人公が不良でかっこよかったんだ。煙草すぱすぱやってるのに憧れてさ……」
「まさか銘柄もおんなじ?」
「うるせえ、いいだろ別に」
「憧れの人のまねするなんてかわいいとこあるじゃん。そーゆーとこ割と好きだよ」
「割と?」
「そ、割と。好き好き大好き超あいしてるって言ってほしい?」
「重いからいい」
「だよねー」
彼女とじゃれあって仰向けにひっくり返れば、煙草の穂先から一筋紫煙が立ちのぼっていく。
まだ倦怠期を迎える前、一番幸せだった頃の話だ。
物事にはなんにでも終わりがある。
幸せな時間は長く続かない。
俺は学生で彼女も学生、お互い若くて青臭かった。青春は苦くて酸っぱい。
半同棲じみた生活は心地よかったが、だんだんと彼女の束縛が煙たくなり始めた。服やら傘やら好きなバンドのCDやら私物を持ち込んだ彼女の部屋は俺に優しくて、そのヌルさに知らず甘やかされていた。
俺達は優しさと甘えをはき違えていた。
未熟な勘違いだ。
一か月、二か月、半年が経過し、俺はせっかく入った大学からだんだん遠ざかり、バイト先と部屋との往復で日々を過ごすようになった。
彼女は真面目に講義に出て、女友達とたまに遊びにでかける以外は俺を部屋で待ち構えていることが多くなった。
「なんで既読スルーするの?なにしてたの?バイト終わったらすぐ帰るって言ったよね」
「ご飯いらないならちゃんと言ってよ、二人分作って待ってたんだよ」
「大学ちゃんときなよ、みんな心配してるよ。せっかく入ったのにさ……もう、無視しないでちゃんと聞いてよ!都合悪くなるとすぐベランダ行く!」
ベランダは避難所で煙草はいい口実だった。ちょっと煙草喫ってくるといえば、口うるさくなじる面倒くさい女から逃げきれる。
ダイエットしなきゃとぼやきながら、俺がバイト帰りに持参したコンビニスイーツを馬鹿食いする彼女が好きだった。
煙草の残り香が移るといって短いキスをせがむ、ふくれっ面が好きだった。
好きだった。大事だった。もう過去形だ。俺が可愛いと思っていた彼女を構成する全部がうざったくなりはじめた。彼女が悪いんじゃない、誰のせいでもない。いや、俺が悪いのかもしれない。俺は僕に対して優しくなれない。彼女はしきりと俺の外出を気にしちゃ五分ごとにLINEメッセージを送り付け、ねえ何してたの今何してるのどこにいるの根掘り葉掘り詮索するようになった。今ならわかる、彼女は不安だったのだ。
彼女が大学に行ってるあいだ俺はバイトに出て、生活リズムが次第にすれ違い始めて、一緒にいられる夜も不毛な喧嘩に費やして。
俺は煙草で文句にふたをして、煙はもっと苦くなった。
ある日とうとう彼女はキレた。
きっかけはなんだったのかわからない、どうせくだらないことだ。思い出すのも馬鹿馬鹿しいささいな理由。それでまた喧嘩が始まった。
彼女はものすごい剣幕で俺に詰め寄り、ヒステリックに叫ぶ。
「もっとちゃんと僕を見てよ!」
「見てるって」
「ウソツキ!」
「お前は?俺のことちゃんと見てんの」
「当たり前じゃん」
「じゃあ俺が喫ってる煙草の銘柄答えられるよな」
彼女は堂々と宣言した。俺はこれ見よがしにため息を吐き、胸ポケットから煙草のソフトパックを出す。
「やっぱり。変えたのにも気付かねーじゃん」
「あ……」
「匂いで気付かなかったの」
無茶振りしてる自覚はある。よっぽどの通じゃない限り煙草の匂いなんてどれも同じ、喫わなきゃわかりゃしない。
知ってて彼女を試すようなまねをした。
「うそじゃないもん……」
煙草の煙と嘘は一緒。吐いたそばから虚しく薄まり消えていく。
彼女は膝から崩れ落ちて泣いた。
「好きな人に憧れて喫いはじめたって言ったのに、変えちゃったら意味ないじゃん」
「この年で漫画のキャラパクってちゃ痛いだろ。いい加減大人なんだ、好きな時に乗り換える」
大人になりきれない彼女は「好きな人」と呼んで、大人ぶりたい俺は「キャラ」と吐き捨てた。
決定的な価値観のすれ違いが表面化し、飛び越えられない溝ができる。
寒い一人称にこだわり続ける彼女にあてこすり、家を出た。
束縛に疲れた。
二人でいるのが苦痛になった。
どっちも悪くない。ただちょっとお互いに余裕がなかっただけ、お互いの嫌いなところを許し合えなかっただけだ。漫画のキャラクターに感化されて一人称を改めた彼女と、漫画のキャラクターに憧れて煙草に手を出した俺は、お似合いのカップルだったはずだ。
勢い彼女の部屋を飛び出してから考える。
俺は不十分だったのか?恋人として失格なのか?一体これ以上アイツの何を見てりゃいいのか、もとから悪い頭で考えてもさっぱりわからない。遠すぎてわからないモノがあれば近すぎて見失うモノもある。
俺はアイツの近くにいすぎて、アイツのホントの気持ちがさっぱり見えなくなっていた。
この頃は煙草の煙越しに会話して、アイツの目に浮かぶ涙も煙草のせいにして向き合うのから逃げてきた。
「……やっぱ俺が悪い、か」
とぼとぼと道を歩きながら癖で煙草をさがすが箱が見当たらない。彼女の部屋に置き忘れたのだ。
いまさら戻る気はない。あの部屋にはもう行けない。彼女の部屋に染み付いた残り香はしばらく消えないだろうが、時間が経てば自然と薄まってどこかへ行く。
喫煙は緩慢な自殺だと昔の偉い人が言った。大学の講義で教授もしゃべった。
それは知らないあいだに体に回り沈殿される見えない毒素だ。ニコチンでもタールでもない、人をダメにする惰性の習慣。
俺達は共依存の無限ループにはまりこんで、お互いを煙たがりながら離れられなくなっていたのだ。
俺は煙草をやめない。
しばらくは喫うたびアイツを思い出すとしても、煙草を喫ってる俺が一番「らしい」と思うから。リラックスして自然体でいられるから。
彼女は俺の喫煙癖を嫌っていたが、ベランダにでるとほったらかされる寂しさに纏わり付いてきた。一口ちょうだいとねだられたが、意地悪して取り上げた。煙草くさいキスは俺だけで十分だ。
彼女は悪くない。
俺も悪くない。
煙草は全然悪くない。
副流煙で彼女の寿命が縮むのがいやだから部屋を出たんだと、からっぽのポケットを持て余して自分に言い訳し、暗闇に浮かぶ恋しい面影を瞼で抱きしめる。
これはそんな、恋人失格のだれかさんの独り言。
最初のコメントを投稿しよう!