身売り

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身売り

 あの通りに行きさえすれば、彼女に会える。  薫はそれを知っている。知っていて、あの通りに足を踏み入れられない。  怖いのだ。彼女はもういないのかもしれないことが。  例えば老いて醜く変わり、街灯の下にはいられなくなったとか、例えばなにか病気をもらってこの世にいなくなってしまったとか、単純にもう売春からは足を洗ったとか。  そんな仮定はいくらでも思いつく。  薫が彼女に拾われたとき、彼女は多分20をいくつか出たところだった。あれからもう10年が経つ。観音通りの女ならば、その十年間でどう変わっていたっておかしくはない。  それでも、毎日思う。  あの通りに行きさえすれば、彼女に会える。  薫を拾ってくれた人。行くあてもなく彷徨っていた薫を、当たり前みたいな顔をしてひょいと拾い上げてくれた人。  薫が彼女のもとにいたのは、そう長い時間ではない。ほんの一か月間、薫が孤児院に入るまでの短い時間だ。  それでも、毎日思う。  あの通りに行きさえすれれば、彼女に会える。  あの頃6歳だった薫は、今や16歳になった。孤児院を出て、住み込みで看板屋の仕事にもついた。  なにが不満かと問われれば、今の暮らしに不満はない。ただ、彼女がいない。その事実が薫の胸に大きな穴をうがっている。  子供の頃は単純に、大きくなれば彼女に会えると思っていた。大きくなって自分の好きに動けるようになりさえすれば、と。  それが自分の好きなように動けるようになればなるほど、薫は彼女を探しには行けなくなった。彼女がいる場所は分かっているのに。  あの通り。6歳だった薫が訳も分からず紛れ込んだ観音通り。万引きして殺されかけていた薫を、自分の子どもだと言い張って連れて帰ってくれた彼女。思えば薫は、彼女の名前さえも知らないのだ。  戦災孤児と観音通りは相性がいい。あの頃、観音通りにはたくさんの孤児がいて、めいめいがあの通りの売春婦たちに養われていた。どの孤児たちも、自分の姐さんのうつくしさや優しさを誇っていた。薫だって、そうだった。大好きだった、うつくしい姐さん。  一人では生きていけない戦災孤児と、生きてはいけても心が寂しい売春婦。ありきたりと言えばありきたりの組み合わせだ。  薫もその一人だったのだ。
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