昔 東京の片隅で 第1話 帰郷

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昔 東京の片隅で 第1話 帰郷

            ■  ぼくの携帯が鳴った。  病院からだった。  覚悟はしていた。  その瞬間が、とうとうやってきたのだ。  もどかしく耳に押し当てた携帯から、おそらく担当看護師であろう女性の、押し殺した声が聴こえてくる。  奥様が危篤です。こちらに来て頂けますか。             ■  病院に着いた。  妻はもう、いつもの病室には、いないに違いない。  ぼくは受付で、妻と面会した(むね)を告げた。  受付の警備員はPCに妻の名前を打ち込んでから、案内担当の警備員に妻がいる場所を伝えた。  スペルベン。  受付の警備員は、案内担当の警備員にそう話す。  ぼくは学生のころ、ドイツ語を選択していたので、その意味を知っていた。  スペルベン。死亡。おそらくその言葉は、病院内で亡くなった患者を指す隠語なのだ。             ■  警備員に案内され、ぼくは地下の慰安室に入った。  顔を白い布で覆われた妻は、冷たくなっている身体を除けば、ただそこで眠っているようだった。  病室の窓から沈む夕陽を眺めながら、 「ねえ、あなた。わたし、もう一度、鎌倉の七里ガ浜にあるレストランから、江ノ島に落ちる夕陽が見たいな」  妻は一度言葉を切り、そして続けた。 「見られるかしら。あの松明(たいまつ)が灯るテラスレストランから、夕陽が沈む江ノ島の灯台を」  今にも消え入りそうな声でそういう妻にぼくは、彼女のやせ細った手を握りながら、 「見られるよ。病気が治ったら、絶対」と言って、励ますしかなかった。              ■  けれど妻は、とうとう還らぬ人となってしまった。  子供には恵まれなかったけれど、それでもぼくにとって、きみと暮らした十年は幸せだったよ。  その妻は今、小さな骨壺に収まって、ぼくと一緒に機上の人になっている。  全日空、羽田発北海道千歳行き航空便。  ぼくは妻を生まれ故郷の北海道稚内に連れて行き、日本海とオホーツク海に面した墓地に埋葬するつもりだった。  旅客機に搭乗し、妻の骨が入った骨壺を天井の収納スペースに入れようとしたところ、ひとりのCAがぼくに声をかけた。  「失礼ですが、この骨壺に入っている方はどなたでしょうか」  ややあって、ぼくは答える。 「これは妻です。十年連れ添った、ぼくの妻なんです」  その言葉を訊いたCAは微笑みながら、 「隣の窓際の席が空いてますから、どうぞ奥様をそこに座らせてあげてください」と、隣の席を手で示した。  ぼくはその言葉に甘えて、妻の骨壺を窓際の席に置いた。              ■  旅客機が離陸した。  しばらくすると先ほどのCAが、ソフトドリンクを持ってぼくの席まで歩いてきた。そしてぼくと窓際の席にソフトドリンクを置くと、 「お客さまと奥様のドリンクをお持ちしました。どうぞご一緒に召し上がりください」             ■  泣きそうになった。子供のように泣きじゃくりたい気持ちになった。  それがCAの、ホスピタリティに触れた、ぼくの感情だった。  窓の外には、果てしなく広がる雲海が見える。  そしてぼくが搭乗している旅客機を見守るかのような、夕陽も見える。  そのときぼくの脳裏には、妻が大好きだったスコーピオンズの歌と演奏が何度もリフレインした。  I’m still lovi'ng you. ぼくはまだ、きみを愛してる。                                 《了》
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