キネマトグラフ

1/8
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
部屋に鳴り響く今日三回目のアラーム。 冷たい空気が顔を刺し、柔らかい布団が身体を守る。 一度目のアラームが鳴った時から意識は覚醒しているのに、布団から出る気がしない。 でも、そろそろ出ないと学校に間に合わなくなる。一先ず、耳障りな音を止めようと布団に包まったまま手を伸ばしてスマホの画面を叩くと、近くに置いていた未読のキネマ新報が重力に従ってボトリと落ちた。 「あーぁ…。」 見ると、ちょうど開いたページに園田監督の新作が大きく載っている。モノクロで写る若手女優と大物俳優。そうか、もうすぐ公開だっけ。園田監督の作品は人間関係がリアルなんだよな。前作もすごく良かったから今回も期待できる。台詞とか、生々しいし。人間の内側の黒い部分が滲み出てるというかー。 前作のラストシーンを思い返しながら布団から脱出してカーテンを開けると、外は雨が降っていた。雨合羽を着た中学生達が家の前の道を自転車で通過していく。 「寒そ…。」 欠伸をして、キネマ新報をサイドテーブルに戻した。 'キネマ'というのはドイツ語で'映画'を意味するキネマトグラフの略称らしい。フランス語で映写機を意味するシネマトグラフ(シネマ)が日本語で'死ね'を連想する事からキネマと言われるようになったという説もある。僕は後者の説のほうが好きだ。日本人らしく履き違えた気遣いみたいで。 ーピフォン。 スマホの画面にスイッターの通知が浮かんだ。 底辺さんがスイートしたようだ。 底辺@teihen_063〉おはよー 底辺さんはいつもこの時間におはようスイートをする。昨日のおやすみのタイミングも僕が寝ようとしていた時だったし、生活周期がとても似ているので僕と同じく学生なのかもしれない。もしかして同じ学校だったりして。ーそれはないか。 スマホを手に取り、リプライをした。 「お、は、y、…」 僕が文字を打ち込む間に、おはようというリプライが数個浮かんできていた。みんな、反応が早い。 はなび@hanabi3641〉おはようです 蓮@ren_sinoha〉おはよっ グラ@gr1zjdpbb3〉底辺さんおはようございます。 ゆう@yu.xxx5289〉おはようございます、底辺さん。 「ゆうー!早く支度しないと遅刻するよ!お母さん先に出るからね、朝ごはんテーブルの上置いてるから!」 一階からお母さんの声がしたので、 「うん。」 とだけ返事をして、着替えを済ませた後にリビングに行くと、テーブルの上にマーガリンを塗っただけの食パンとコップに注がれた牛乳がインテリアのように置かれていた。牛乳が冷たそうなのは嬉しいが、焼き色の付いた食パンまで冷えてそうなのが悲しい。 スイッターのスイートリストをスクロールして一通り流し読みしながら、食パンを二口齧り、牛乳を飲み干してから学校に向かった。 大きめの傘で雨と人の視線を凌ぎ、屋根のない廃れた商店街を抜けると、昔よく通った駄菓子屋の跡地にできたコンビニの前を通る。同じ制服の人達を後ろから縫うように追い越して、家から教室まで一言も喋らずに到着した。 学校に着いたところで誰かと喋るわけでもない。僕は空気だ。今日も一日、教室の隅で静かに停滞しているだけ。 汚ない黒板と掠れた声の教師。それを眺めながらノートに丸を書く。丸を十個ほど綺麗に書けた頃に授業が終わる。指名されなければ、授業でも喋ることはない。休み時間ももちろん、トイレに行く以外に僕の行く場所はない。じっと座って耐え忍び、時間の経過を待つだけだ。 外の雨はまだ止まない。窓ガラスに水滴が流れている。 ゆう@yu.xxx5289〉帰りたい。 僕は机の下で打ち込んで、送信した。 誰かに返信して欲しかったわけではないのだけれど、誰かに見て欲しいとは思っていた。 「ねえ、キモいんだけど。」 後ろから声がしたのですぐに振り返ると、同じクラスの女子3人が立っていた。3人ともシャツの胸元が大きく開いていて、今にもブラジャーが見えそう。 髪は動物園のキリンみたいに汚ない色で、爪がペリカンみたい。歯周病のカバみたいな歯を見せて怒っている。 「お前、これいつからやってんの。」 3人の視線は、僕の後ろの席の冨永さんに向けられているようだ。 冨永さんを囲むように立っている。鹿を囲むライオンのような、まさに弱肉強食の構図。キリンペリカンカバ鹿ライオン。ここは学校という名のサファリパークか何かだろうか。 「え、と。ちょっと前。」 「これ私達の事でしょ。」 「いや、違うくて…。」 冨永さんは3人に圧をかけられてうまく喋れていない。3人はスマホを手に持っており、何やら画面に映っているものに怒っている。 スマホに覗き見防止シートが貼られているので僕からは見えなかった。 「違うくないでしょ。このスイート明らかにウチらの悪口言ってるよね。」 「いや、その、ちが…。」 「とりあえずちょっと来な。」 冨永さんは手首を握られて立たされると、そのまま引っ張って持っていかれた。嫌がる彼女の声は小さく、上靴が片方脱げて、後ろに転がる。クラスメイト達は道を開け、止めようとはせず嘲笑った。 彼女がスイッターで何を呟いたのかは知らないし、彼女が悪いのかそうじゃないのかも分からないけどどちらにせよ、僕は可哀想だと思うだけで止めることはできない。だって獲物が僕に変わるかもしれないから。心の奥では、僕じゃなくて良かった、と考えている自分がいる。 他のクラスメイト達も同じ。きっと皆んな他人事のように自分じゃなくて良かったと心の中で安心しつつ笑っている。 「やめなよ。嫌がってるじゃん。」 唯一止めに入ったのが、柊木さんだった。 ボーイッシュな短い髪と大きな目、高い鼻、大きな胸、細い足。 クラス委員を率先してする、週刊少年ステップの主人公のような真っ直ぐな性格で、僕とは違って圧倒的善者だ。 彼女はこういう時に必ず参上する。 「柊木には関係ないから。」 「でも嫌がってるし、ほら皆んなも心配してる。」 残念ながら柊木さんの言うことは間違っており、クラスのみんなが冨永さんに向けている目は哀れみの目で、心配なんて感情は何処にもない。そんな空気を読めないところも柊木さんの'良い'所でもある。 「だから。場所変えようとしてんじゃん。」 「私も行く。」 「何で柊木が来んだよ。いらねーし。」 「心配だから。」 「関係ないって言ってんだろ。」 「クラスメイトだもん。」 「ねえ、先生来た。」 「ちっ、あー、うざ。」 柊木さんは、今日も美しい。 羨ましくて、妬ましい。 前世でどんな徳を積めば容姿が良くて性格も良いあんな人間に生まれられるのだろうか。何を食べればこの暗くてつまらない世界であんなに真っ直ぐ生きられるのだろうか。僕なんかとは根本的に何かが違うのだろう。 ーグググ。 はなび@hanabi3641〉サボりたいですね。 蓮@ren_sinoha〉わかるー。 一方で、スマホの中の世界はいつも平和だ。 教室では空気のような存在の僕のスイートなんかにも返信が来る。 はなび@hanabi3641〉早く映画が観たいですね。 蓮@ren_sinoha〉間違いない。 「も、う、す、g...」 ゆう@yu.xxx5289〉もうすぐ園田監督の新作公開しますね。 蓮@ren_sinoha〉人間の檻! はなび@hanabi3641〉楽しみですー 底辺@teihen_063〉話に乗り遅れた、みんな学校がんばろうね 学校が終わり、外に出るといつの間にか雨が止んでいて、屋上でカラスが欠伸をしていた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!