五つのボタン

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 ぱたぱたと雨粒が窓を叩いた。  麻美はノートパソコンから顔をあげ、ベランダからあわてて洗濯物を取り込む。 「今夜のお花見は、なしね」  取り込んだ洗濯物をリビングに干しなおしながら、麻美はミホに聞こえるよう声を張り上げた。はーい、という返事が隣の和室からして、すぐ奥の子ども部屋へ駆け込む足音がした。  また押入から何か引っ張りだしたんだ。  麻美がため息をついて和室をのぞくと、開け放した押入から段ボール箱が一つ、畳のうえに引っ張り出してあった。母が遺した手芸用品が詰まった箱から、何か持ち出したらしい。 「おばあちゃん、そっくり」  いったい何を作るのやら。きっとミホの部屋は相変わらずの散らかり放題だ。後で片づけさせよう。麻美は眉間に皺をよせ、花柄の布やモヘアの毛糸が詰まった段ボールのふたを閉めた。  だから、いらないっていったのに。  母親の葬儀の後に、父親からなかば押し付けられた手芸用品だが、ハンドメイドには全く興味のない麻美には、ただ場所を取る厄介者だ。  段ボールを押し入れに戻し、麻美は連休中にやるべきことを確かめた。持ち帰った仕事をすませること、父親の病院へ顔を出すこと、ミホの宿題を見ること。  つい先日の家庭訪問で、新しい三年生の担任からミホのテスト結果を聞かされた。百点満点で二十点にも手が届いていなかった。しっかり勉強を見て欲しいと言う自分より年下の女性からのことばを聞いて、麻美は悔しさと恥ずかしさで目まいがした。  娘が勉強できないと、母親までダメな人だと思われているような気がする。ちゃんとしないと。片親だからと言われたくない。麻美は唇をかみしめた。 「きっと母さんに似たんだ」  ミホの丸い輪郭や、黒目がちな二重は麻美の母親譲りだ。勉強は苦手だったと聞いた。じっさい宿題を見てもらった記憶がない。手先は器用だったけれど、整理整頓ができなくて、実家の和室はミシンを中心にして足の踏み場もないほど布や型紙が広げられていた。  もし、母親が元気だったなら、孫娘のために張りきって何でも作ってやっただろう。ワンピースでも、セーターでもバッグでもぬいぐるみでも。麻美にしたように、いくらでも作ったはずだ。  もっとも、麻美は母の作るものは、デザインがどれも野暮ったく感じられて好きではなかった。幼い頃ならばいざ知らず、小学校高学年くらいからは母の作るものは着なくなった。  麻美はといえぱ母親には似ず、手芸がまるでできなかった。ボタン一つまともにつけられなかった。  だから、大切なボタンを失くした。  今でも悔しくて忘れられない。  高校指定のブラウスの第一ボタンが取れて、母親に付けてくれるようお願いした。たかがボタンひとつ。自分でつければよかったのだ。針を持つのが億劫で母に頼んだのが間違いだった。確かに母に手渡したボタンは、見事に消えた。  ブラウスのボタンには桜の形が銀線で描かれていたが、第一ボタンだけは目立つような金線だった。  麻美は、ひどく母をなじった。普段は無口な父が仲裁に入るほどに。 「この制服を着るのに、私がどれだけ努力したと思うの」  とうの母ときたら、一番下の銀線のボタンを外して上に付け直すと、後は古着から取ったボタンで間に合わせて麻美に渡した。何の悪びれもなく、しれっと。そんな態度が余計に癇に障り、二度とたのむことはなかった。  そんなこともあったっけ、と麻美はひとりごちした。自分が母にいら立ちを感じていたように、母も自分に似ず不器用な娘を腹ただしく思っていたのかも知れない。  病床の母の手を握ることもないまま、お別れしてしまったことを、やり残した宿題のように感じてしまう。口の中が苦く感じられた。  リビングに戻ると、雨はみぞれになっていた。もう四月だというのに、北国の春は気まぐれだ。足元に電気ストーブを点けてパソコンのスリープを解除した。リビングダイニングの二人用のテーブルは仕事の資料とパソコンを置くと一杯だ。失敗の二文字が頭に浮かぶ。  母は麻美の結婚に良い顔をしなかった。 「なにも、そんなに立派な人じゃなくても」  と言った母の言葉が麻美の耳に甦った。 「わたしと釣り合わないって言いたいの?」  高収入で次男、見てくれだって悪くない。自分が選んだ伴侶を母は不釣り合いだと言いたげだった。  専業主婦のくせに掃除ひとつ完璧にこなせない母親を、大人になった麻美は見下していた。  進学校へ入学すること、より偏差値の高い大学へ進むこと、名の通った会社へ入ること。それから、完璧な男性と結婚して賢い子どもの母親になって、それから……。  ストーブの暖かさで瞼が重くなってきた。  努力して、努力して。いつでも一番のものがほしかった。自分は欲張りすぎるのだろうか。  誰もが知っている会社に勤める夫は、麻美の自慢だった。  けれどミホが小学生になる前年に突然退職して、起業するといってきた。麻美は夫の気が知れず、ついていけなかった。 ――やっぱり、君はぼくを年収と仕事で選んだ。他人に自慢できない夫はお払い箱だよね。  どきん、と胸が鳴って目が覚めた。 「ママ」  テーブルに突っ伏した麻美と、視線を合わせるように首をかしげているミホと目が合った。いつの間にか寝ていたらしい。 「宿題はしたの」  やにわに体を起き上がらせ、麻美はミホを見た。きゅっと眉をしかめてミホは目をそらした。麻美がお小言を口にしようとしたそのとき、ミホが小さな手を差し出した。 「おはなみ、できないから……」  桃色のフェルトに、丸みがかった星型の線が赤い糸で不ぞろいに縫われていた。たぶん桜の花の形だろう。そして五つの先端にはボタンが光っていた。 「これ……」 「おかしのカンに、はいっていたよ」  桜のボタン。制服のブラウスは長袖三着、半袖二着。麻美は記憶を確かめた。フェルトの上には五つの金線の桜があった。  母は古着からボタンを外してクッキーの空き箱に入れていた。ミホが持ち出したのは、それだったのだろう。 「……見つけていたんだ」  麻美はミホが縫った桜を指でなぞった。たどたどしい針の運び。なんて不格好な花。  母は結婚をもろ手を挙げて喜びはしなかったが、孫のミホが生まれた時の喜びようは、嘘偽りのないものだった。  手先が器用だったくせに、麻美との対話はいつも不器用だった。母が麻美を分からなかったように、麻美も母を理解せずに終わってしまった。 ――たぶん、ミホは私のようには生きないだろう。私が理想とする娘には育たないだろう。そんな娘を、私は受け入れられるだろうか。  おどおどとした瞳が麻美を見つめている。  麻美はぎくしゃくと手を伸ばして娘を抱きしめた。こんなふうに娘を抱いたのは、赤ん坊のとき以来かも知れなかった。 「ありがとう」  ミホが麻美の首に手をまわし、頬を寄せた。  汗の匂いと、ほのかに甘い匂い。  麻美の冷えた体にミホの体温が、すこしずつ伝わる。  わたしたちは、少しずつ母に似ていると、麻美は思った。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!