序章

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序章

 黒き山の向こうに、元より弱々しかった太陽が沈みゆく。  先程まで茜色に染まっていた空は、筆洗バケツの色が滲むように藍の色へと変化する。  その様を見上げながら、幼子はまた一つ、透き通った涙を零してしゃくり上げた。  ことのはじまりは、まだ陽の暮れはじめる前のこと。  母親と共に遊びに行った川沿いの大きな公園で、幼子はその時はじめて、己をじいと見つめている存在がいることに気がついた。  ただ遠いところにある人影らしきもの。  道路と、さらに川を超えた向こう側の河川敷に、それは佇んでいた。それだけのことが、何故だかひどく恐ろしかった。  母が、先程からそろそろ帰ろうと呼ばわっている。だが、母の奥に見える彼の人の方へ近づくのが怖くて、足が動かない。  幼子はついに(きびす)を返して逃げるように反対方向へと走り出した。  母の制止の声は聞こえていたが、追い立てられるように駆け出した足を止めることは出来なかった。  それが、今から二時間ほど前のこと。  驚くべきことに、川の向こうに佇んでいた彼の人は、走っても走っても幼子を追いかけてきた。立ち止まって周囲を見渡すと、それは必ず風景のどこかに潜んでいた。  遠くの木の影、家々の窓に反射する光の中、真っ直ぐな道路の先。それがあまりにも怖くて、また走り出す。  気がつけば、もう己がどこにいるかも分からないような場所にまで来てしまっていた。元より、幼子の行動範囲などたかが知れている。暮れゆく陽を眺めながら、ただ寂しくて、恐ろしくて、幾度も声をあげて母を呼ばわって泣いた。  森のような(くら)い木々の中、人の気配を求め引き寄せられるように近づいたのは、実に大きなお屋敷だった。  暖かな光が漏れるお屋敷の縁側に、人影があった。そこに座るのは、己と同じ年の頃の男子。  真っ白な着物を身に(まと)った男子は、地面に届かぬ足先をぱたぱたと遊ばせながら、黒曜石(こくようせき)のような瞳を幼子へ向けた。 「もう追って来てないよ」  辿々しい男子の言葉に、幼子は改めて周囲を見回す。  もうすっかり闇に沈んだ辺りの景色は、屋敷から漏れてくる光がなければ判別がつかない程であったが、たしかにあの恐ろしい視線を感じなかった。  幼子が泣き続けながらも頷いたのを見て、着物の男子は大きな目を細め、実に楽しそうに笑った。 「いっしょに遊ぼう」  誘いの言葉と共に差し出された手を、恐る恐ると握り返す。走り続けた己の体温が高いのかもしれないが、男子の手は冷水に浸していたかのようにひんやりしていた。  この日のことを、幼子は忘却の彼方へ置き去りにしていく。
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