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 屋敷からの、夕陽差す帰り道。あの時の光景を、俺はきっと、一生忘れないだろう。  薄紫さんに水浅葱色の綺麗な着物を着せてもらい、元々着ていた制服は鞄に入れて屋敷を出た。  石段を下りはじめると、石段と車道が繋がるその地点に、あれが俺を待ち構えるようにして立っているのが見えた。  汚れ、くすんだ白い服が溶け込むように張り付き一塊になった体。黒く長い髪が深々と顔を覆っている、この世ならざるあの異形。  予め、白には言い含められていた。たとえあれを見ても、一切の反応をするな、と。  俺は白に言われた通り、足を止めることなくその横を通り過ぎた。遠くからしか見たことがなかったあれの存在を真横に感じた時には、心臓が破裂しそうな程に鼓動していた。  あの存在からは、獣のような匂いがしていた。  だが、結果として言えば何も起こらなかった。白の術が効いたのだ。  家に帰るまで、決して振り返るなと厳命されていた言いつけも確かに守りきった。  背後で玄関の重い扉が閉まった音を聞き、俺は深々と息を吐く。  扉に背を預けたまま、高鳴っていた鼓動が緩やかに落ち着きを取り戻した時。俺は足元から震えるような喜びに包まれて、ぐっと拳を握っていた。  今はもう、おぞましい気配は感じなかった。リビングの窓から外を見ても、あの禍々しい存在はどこにもない。いつも空を覆っていた厚い雲が晴れたような、清々しい気持ちに包まれる。  生まれてはじめての開放感だった。  それからの半日、俺の機嫌は最高に良かった。自ら率先して夕食後の皿洗いを申し出、「謙ちゃん何か変なものでも食べたの」と母親に不気味がられた程だ。何なら大掛かりな風呂掃除までしてしまった。  毎日浴槽を掃除して、風呂を沸かすのは数少ない俺の家での役目だが、大掛かりな風呂掃除など一ヶ月に一回やるくらいのものだ。それを鼻歌交じりに済ませてしまうくらいに俺は気分が良かった。  不気味な気配を感じることのない心地よい時間を謳歌しながら、その夜はやって来た。  はじめは、夢の中の声かと思った。  どこか遠くで、誰かが自分を呼んでいる。 「謙介……謙介……」  次第に意識が浮上し、それが夢の中ではなく、実際に聞こえていること、そして、母親の声であることを認識した。  声の大きさ的に、階段の下あたりから扉に向かって呼ばわっているようだ。  眠い目を擦り、枕元に置いていたスマホに触れて画面を覗き込む。眩しい液晶は、夜中の二時五分を表示していた。  一体どうしたのだろう、こんな夜中に。何かあったのだろうか。そう、どこか不安な気持ちのまま返事をしようとして、俺ははたと動きを止める。  浮き出た冷や汗が顳顬を伝って喉元へ流れ落ちた。  どうして、母さんはいつも呼ばない呼び方で俺を呼ぶのだろう。  どうして、階段を上って来ないのだろう。  どうして、人の声がするのだろう。  だってこの部屋は、白が作ってくれた別の次元の中なのに。  そもそも、白以外の他人の声がすること自体おかしい。例え本当に母親が外から俺を呼んでいたとしても、この部屋の中にいる限り、俺にはその声は聞こえないはず。  では俺を呼んでいるのは、一体誰だ。  その疑問にぶち当たった瞬間、全身が総毛立つ。開きかけていた口を固く結んだ。  返事をしては、いけない。  声色自体は間違いなく母親のものだ。だが、これは決して母親ではない。そんなことが出来るのは……この声の主は、あいつしかいない。  脳裏に、今日石段の所で俺を待っていた姿が浮かぶ。  横をすれ違ったときに、こっそりと横目で見てしまった。意思があるのかないのか分からない、茫洋と佇む不気味な姿。  肌が何かの疫病にかかっているかのように斑模様であることを初めて知った。髪で隠れているあの顔に、どんな口が開いているのかは分からない。だが、あいつが、この声を発している。 「謙介ー、どこにいったのー?」  俺を呼ばう声のする位置が少しずつ近づいてくる。階段を、上ってきているのだろうか。否、この次元の外のことはどうなっているのか、俺は知らない。ならば、全ては俺の感覚の中だけの話で、階段なんてものもないのかもしれない。 「謙介ー? どこー?」  母親ではないと認識した途端、その、いつもの母の調子である穏やかな声が不気味に響く。呼び声だけが聞こえる他、静まり返った室内で自分の呼吸が浅くなっていることを自覚していた。  徐々に扉に近づいてくる声に、俺は静かに上体を起こすと、扉から距離を置くようにヘッドボードの方へと縮こまった。  だが、出来ることなんてたかが知れている。対抗手段も分からなければ、逃げることもできない。白が用意してくれたこの部屋から出ることは自殺行為だ。 「ねえ、謙介、ここにいるのー?」  今や声は、扉一枚隔てたすぐそこから聞こえている。  俺は息を潜めたまま、寝間着にしているジャージのズボンのポケットに手を差し込み、そこに入れていた式神を取り出した。  たった一枚の紙片。だが、これは白がくれたものだ。何の効果もないかもしれないが、今縋れるものはこれしかない。  式神を握り込んだ手を自分の胸元に持っていく。触れた所から、どくどくと自分の鼓動が聞こえて煩い。  ふと、先程まで呼ばわっていた声が途切れたことに気づいた。  諦めたのだろうか。  そう、僅かに気が緩んだ瞬間。バンッと扉に何かが激突したような音が響き渡る。危うく、叫び声を上げてしまう所だった。それから続けて、幾度も扉が叩かれる。  いや、叩かれているのではないのかもしれない。あの体は、腕を動かせるのだろうか。であるのならば、体ごとぶつかってきているか、頭を打ち付けているか。  想像するだけ、恐ろしい。 「謙介ー、謙介ー、謙介ー」  狂ったように同じ調子で名前を呼び続ける母の声。俺はただ、自分の口を手で塞いで声を漏らさぬようにやり過ごす。  永遠とも思える長い時間。  その狂気の音と声が止んだのは、カーテン越しにも分かるほどに、夜が白白と明け始めてからだった。
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