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 隙間が怖い。  自分の中にある、隙間に対する並々ならない恐怖心を自覚したのは、つい先日のこと。  記憶を辿ってみても、元々そんなことはなかったはず。そう冷静に分析は出来るのに、私は私の中の焦燥感を抑えることができなかった。  再びちらりと、教室の戸に視線を送る。少し褪せたオレンジ色の戸と、戸の縁である銀の柱との間。そこに五センチにも満たないような隙間が開いている。  授業が始まる前に確認しておいたのに、先生が入って来た時にきちんと閉めないから、戸が閉じ切っていないのだ。  冬でもないし、そこが開いているからといって寒かったりする訳でもないから、気にしなければ良いだけの話。  私は無意味にシャーペンのノックを繰り返しながら、何とか先生の話に意識を集中させようとする。  でも、怖い。その隙間から目を離したくない。  ほんの僅か開いたそれは、覗き込まない限り、その奥に何があるのか分からない。  向こう側に何があるかとか、想像して怖がっている訳じゃない。第一、戸の向こうには廊下しかないことは分かっている。ただどうしても、理由もなく、我慢がならない。  授業中だというのに、私はついに勢い良く立ち上がった。  突き動かされるように戸の所へ向かうと、それをぴっちりと閉じる。  戸を閉めた途端、無意識に溜め息が溢れた。自分を急き立てていたどうしようもない不安な気持ちが薄らいで、体に籠もっていた力が抜けていく。  ただ、同時に我に返った。振り向くと、先生と皆が私の方を驚いたように見つめている。  私の席は教室の中央。廊下側一番端から二番目の列の、前から三番目。そんなところに座っている私が、いくら中途半端に開いた戸が気になったからって、自分から閉めに行く必要なんてないんだ。 「どうした、御崎(みさき)」 「すいません、何でもありません……扉がちょっと開いてるのが気になって……」 「そうか、ありがとうな。席に戻りなさい」 「はい」  先生が優しくて良かった。  促されるままに席に戻りながら、これはやっぱり強迫性障害っていうやつかもしれないと、私は昨日寝る前にネットで調べた記事を思い出した。  強迫性障害とは、「分かっているのに止められないこと」があって、それによって生活に支障が出るものを言うらしいのだ。どうしてこんなにも隙間が怖くなってしまったのか、理由は分からないけれど、ひどいようなら病院に行ったほうが良いかもしれない。  皺にならないように制服のスカートを抑えながら椅子に腰を下ろして、そっと溜息を一つ。気持ちを入れ替えて授業に集中しようとしたとき、左隣から視線を感じた。  隣の席の男の子が、私をじっと見つめている。  私が変なことしたから、当然なような気もするけど。先生も他の皆も、何事もなかったみたいに授業に戻っているし、この凝視っぷりはちょっと異様だ。  七瀬白くん。ちょっと変わった名前だから、すぐに憶えてしまった。隣の席だけど、実は入学してから一度も言葉を交わしたことがない。でもそれは私だけじゃなくて、七瀬くんが必要以上に喋っているのを、クラスの誰も見たことがないんじゃないだろうか。  幸いなことにこのクラスではまだイジメのようなことは起こっていないので、別に除け者にされている訳でもない。ただ彼自身が、そして周囲の全員が距離を置いて、なんとなく遠巻きにしているような雰囲気。  七瀬くんはさらさらとした黒髪に、小さく纏まった印象の顔立ちをしている。決して華やかな美形っていう訳でもないけど、全体的にとても上品な感じ。  そんな彼が、どこまでも見通してしまいそうな、黒々とした大きな瞳で、まっすぐに私の顔を捉えていた。 「ど、どうしたの……?」  無視するのもおかしく感じられて、先生に聞こえないように、思い切って小声で声をかけてみる。 「……いえ」  一拍の間があった後、七瀬くんは短くそう言ったっきり、私から視線を外すと黒板の方を向いてしまった。  今度は私の方から七瀬くんを見つめる番になる。周りから変な目で見られても困るから、慌てて私も前を向く。  一体何だったんだろう。もしかして私に気があるのかななんて、冗談でも考えられない雰囲気だった。さっきまで戸の隙間に抱いていた不快感はすっかりなくなって、今では七瀬くんに対する疑問でいっぱいだ。  私は努めて先生の話に意識を集中させて、征夷大将軍がどうとか、源頼朝がどうとかいう話を教科書で追っていく。  授業が終わったその後もずっと気になってはいたのだけれど、七瀬くんの近寄りがたいオーラに気圧されて、結局その後も一日、声をかけることはできなかった。
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