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その日の放課後。生徒の少なくなった教室で、日直の私は学級日誌に今日のまとめを書き込んでいた。ただ、進捗は芳しくない。
なぜなら例の七瀬くんのところに、初めて見る上級生が来て何やらヒソヒソと話し込んでいたから。気になって、頭の中で上手く文章が纏まらない。正直もう日誌なんてどうでも良い。
そもそも、上級生が下級生の教室に入ってくる時点であまりないことだと思うのだけど、その相手がよりにもよって七瀬くんだ。
上級生の学ランの襟にⅡの学年章がついているから、二年生だということは分かる。体格が良くとても背が高くて、ちょっと格好良い感じの先輩だ。
少し長めのスポーツ刈りが爽やかでよく似合っているな、なんて思ってしまった。ただ、さっきから聞き耳を立てて聞こえてくるだけの話を聞いている限り、言っていることは不思議だった。
「だから、朝まで一睡もできなかったんだよ」
「よく返事をせずに堪えましたね。偉いですよ」
「褒めて欲しい訳じゃなくて。本当に大丈夫なのか? 今まであんなことなかったのに」
「あれはきちんと貴方を見失っていますよ。今はもうついてきて居ないのはスケも分かっているでしょう? きっと、貴方を探して家へ行ったのでしょう。あれは執念深くて力が強いですからね、おれの次元にまで声だけ届いたんです」
七瀬くんがこんなに長く言葉を発しているのも初めて聞いた。低くも高くもない、落ち着いていて、良い声だと思う。
いつも全く喋らないので、話すのが上手くないのかと思っていたのだけど、この様子ではそうでもないみたい。何故いつも黙りこくっているのだろう。言っていることは、こちらもよく分からないけど。
「つまりあいつは今夜も来るのか?」
「いえ、しばらくは近寄って来ないでしょう。貴方がきちんと言いつけを守れて、おれも嬉しく思いますよ」
七瀬くんの言葉を聞き、その先輩はあからさまにほっとしたような、大きな息を漏らす。
一体彼らはどういう関係なんだろう。七瀬くんは敬語を喋っているが、態度はどちらかと言うと彼の方が偉そうに見える。
必要最低限の言葉しか聞いたことないけど、そもそも彼は同級生に対しても敬語だったような。
いつの間にか、私は彼らを覗き見てしまっていた。不意にこちらを向いた先輩と、ばっちり視線が合う。
あっ、と思った瞬間、先輩は気まずそうな表情を浮かべてから、はにかむように笑った。その笑顔が、妙に人懐っこい。どことなく大型犬のような雰囲気のある人だ。
「ごめん、煩いよな」
「あ、いえ。全然。大丈夫です」
かけられた言葉の優しさと、聞き耳を立ててしまっていた間の悪さもあって、私は自分の顔が耳まで熱くなるのを感じる。
そんな私の様子を、七瀬くんがまたまじまじと見つめているのもバツが悪い。
「俺のことは気にしなくて良いからな」
「はい」
恥ずかしさのあまりすぐさま日誌に視線を落として、その空欄を埋めていくのに注力する。
「近づくもののことは、わりと早く根本的に解決しそうですね」
「なんで?」
「自覚はないのですね」
七瀬くんが先輩に言葉をかけているのも聞こえてきたが、今度こそ盗み聞きをする訳にはいかない。私はさっさと日誌を書き終えると、日誌と荷物を持って立ち上がる。
と、その時。
「穂香」
七瀬くんが声をかけてきた。穂香とは、私の下の名前だ。なんで、名前。なんで、呼び捨て。条件反射で胸がドキッとしてしまった。そもそも七瀬くんに名前を把握されているとも思っていなかった。
「えっ、うん、なに?」
どぎまぎしながら返事をすると、彼も立ち上がって私と視線を合わせてくる。
何を言われるのだろうと緊張はしていたが、続いた言葉に、私は目を見開いた。
「隙間が、気になりますか」
「どうして……」
「見えているのですか?」
「何、が?」
問いの応酬になってしまった。
その後も、七瀬くんは私をじっと見つめる。私の身長は百六十センチ。七瀬くんはそれより少し高いだけだ。あまり圧迫感はないが、それでも、内心まで見透かされてしまうような瞳に射すくめられると、居心地が悪い。
「もし隙間の向こうに見えたら、おれに言いなさい」
「向こうに、何が?」
隙間の向こうに、何が見えると言うのか。その言葉の不穏さに、急に怖くなる。今日の授業の時に感じた焦燥感が思い出されて、今すぐ逃げ出したくなるような。
七瀬くんは、ゆる、と目を細める。
これは微笑みではない。どういう感情なのか、その真意は読めないが。
「見れば分かります」
返事はただ、それだけだった。
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