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 車内に会話は一つもなく、ただ低いエンジンの音だけが響いている。歩行者天国になっている箇所を避けて走る車は必然的に、少し遠回りをしているようだ。車窓から外を眺めていると、祭りから帰っていく人の姿が多く見える。花火も終わったからだろう。  静寂に耐えきれなくなり、俺は口を開く。 「その、蛟っていうのはどうして人を連れて行くんだ」 「別の目的があるものもいますが、多くの場合、力を得るためです。この世ならざるものにとって、生命とは力なのですよ。それは何も人に限らず動物、果ては虫などにも宿っているものですが、人の生命は桁違いの力を生み出します」 「蛟は力が欲しいのか? そんな危ない奴がずっと井槌山に居座ってたっていうのかよ」 「いえ……蛟は本来、贄を求めるようなものではありません。だからこそ次元の内側にいることを許されているのです」 「だったら、なんでだよ」  返事はなかった。白の表情からその心はなかなか読めないが、何かに戸惑っているような様子もある。それをこれから調べに行くのだろうか。  車が井槌山に近づくと、俺は白に望まれるまま案内を始めた。目的地はもちろん、謙介を見失った、あの藪の中へ入り込む山道までだ。それ以降は車では入り込めない。  現場につくと、俺と白は車を降りて藪の中へと入っていく。なんとなく嫌がるかと思ったが、白は躊躇う様子も見せなかった。  先程よりもずっと暗くなっているように感じる森の中を、車から出してきた懐中電灯の光を頼りに歩く。だが不思議と迷うことはなかった。何の目印もない放置された山の中だというのに、俺は真っ直ぐに謙介がいなくなったその地点にたどり着く。  その場所にはもちろんあの社の姿はなく、ただの藪に囲まれた、少しだけ開けた空間にすぎない。 「ここだ」  その場所を示すと、白は頷きも返事もせずに地面にしゃがみ込み、その土に掌を触れさせた。その行為によって一体何が分かるのかは伺いしれないが、白は呟いた。 「水脈か……」 「水脈?」 「ちょうどこの下に水脈があるのですよ。この水脈は門前川へと注ぎ込むもので、山中に張り巡らされています。蛟はその水脈を利用して移動をしている。スケも水脈か、水の届くどこかに連れ去られていると考えて良いでしょう」 「水……」  白のその説明を聞いた時、俺はあの時のことを思い出していた。女の人から滴り、俺の足元にまで届いていた、意思を持ったような水のこと。 「だからまっつんは、俺を突き飛ばしたのか」 「あれは勘だけは良いですから。それで自分が嵌っていては世話ないですが」  感情のこもらない声で淡々と説明をしながら、白は立ち上がると、さらに山の斜面の方へと徐に歩き始める。 「おい、どこ行くんだよ」 「蛟の根城である場所です。そこにいれば話が早い」 「マジかよ……」  白は体力がなさそうに見えるが、意外と足腰は強いのだろうか。俺は思わず愚痴を漏らす。先程ここから白の家まで、ランニングを終えたばかりだ。だが、ついていかない訳にはいかなかった。  それからしばらく、俺と白は黙々と山の中の道なき道を進むことになる。  白の足取りに迷いはない。確信があるのだろう。過酷な山中を歩く白の足取りは妙に早くて、俺はついていくだけで精一杯だ。  穂香ちゃんと一緒に走った時も思ったのだが、俺も何か運動をしたほうが良いのかもしれない。  ようやく辿り着いたその場所を見て、俺は思わずあっと声を漏らしていた。  場所的には山の中腹付近だろうか。開けた空間に、記憶の中の様子と寸分違わずあの社が建っていた。 「この建物だよ。まっつんと一緒に消えた神社」  白は俺の反応に一切の興味も見せずに社の石段を上り、その扉へと手をかける。おそらく俺の話から、そうであることを察していたのだろう。 「お前、どうしてこんなものの場所知ってるんだ」  白の後に続きながら問いかけるが、返事はない。  白が力をかけると、あの時に聞いた、軋んだ音と全く同じ音をたてながらゆっくりと扉が開いていく。  瞬間、むっと漂ってきた異臭に俺は眉を顰めた。何かがひどく腐ったような匂いだ。それだけではない、複数の異質な匂いが混ざり合って、よりいっそう不快感が増しているというか。 「なんか……臭くねぇか」 「ええ」  その匂いは白も予想外だったのか、同じように眉を寄せながら、着物の裾を引き寄せ口元を覆っている。  社の中に懐中電灯の光を向ける。その暗闇の中にぼうっと浮かび上がったのは、丸く闇を貼り付けたように口を開けている、石を積み上げつくられた古そうな井戸だった。  社の中には祭壇などがあるのかと思っていたので予想外だ。だが、それ以上に目を引いたのは、その井戸の縁や周囲の板間に点々と滴っている、どす黒い液体。  歩いていく白の後に続き、井戸に近寄る。  漂ってきていた腐臭がいっそうの強烈さを増す。白が手にした懐中電灯を井戸の下へ向けた瞬間、俺は胃から何かが逆流し喉にこみ上げてくるのを感じていた。  はじめに光を返したのは、何かの目玉。人のものではない、それよりも大きなものだ。  赤く、黒く、塊になっているものをようやく認識すれば、それは犬や猫、猪や鹿などの様々な獣の血に塗れた死体が折り重なっているものだった。そんなものが、井戸を埋める程にこの中に詰められている。  ブウン、と耳元を掠めて飛んでいった蝿の羽音にゾッとして、井戸から距離を置くように飛び退く。 「何だよ、これ……これも蛟の仕業だっていうのか」 「いいえ。しかし、蛟が人を連れ去った理由が分かりました」  白も半ばよろめくように井戸から離れ、社の外へと出ていく。  外の空気を吸っても、肺に溜まった空気はいつまでも体の中に居座るように、鼻の奥に腐臭がこびり着いている。 「あれは、この世ならざるもののすることではありません。しかし、水を穢された蛟は力と理性を失い、失った力を取り戻すために人を連れ去っている」  そう話をしながら、白はその場に崩折れるように座り込んだ。 「白、大丈夫か」  支えようと手を差し出したが、白は放心したように俺の方を見ようともしない。 「こんな穢の中心地に、蛟が近寄る訳がない。暴走しているなら呼び出すことも出来ないでしょう……スケは式に則って連れて行かれた訳ではないですから、まだ猶予があるとはいえ、この広大な山のどこにいるかも分かりません。虱潰しに探したとて間に合うか……」  白の唇から止めどなく紡がれる言葉は、俺に聞かせているというよりも漏れ出てしまっているものなのだろう。屋敷でもこうして出てくる言葉を聞いて思ったが、まるで自分の中の何かと会話をしているかのようだ。 「おい、白っ!」  俺はその白の頼りない肩を掴み、正気付かせるようにがくがくと揺さぶる。  するとようやく、白の大きく黒い瞳が俺を捉えた。  その血の気を失った唇が、大きく開く。 「謙介のところへ行きなさい」  白から発せられたのは、いやにはっきりとした言葉。至近距離でそんな大声を出さなくても良いのにという声量に加え、その内容は不可解に過ぎる。 「そんな、行けるものなら……」 狼狽えて返事をしたが、声は続いた。 「謙介、謙介、謙介、謙介、謙介!」  狂ったように繰り返し謙介の名を叫ぶ白の様子に、俺は背筋に寒気が走るほどの恐怖を覚えて、手を離し後ずさる。  だが俺の立っていた場所を離れて見て、そこで俺はようやく、白の言葉が俺に向けて発されたものではないことを理解した。  暗闇の中、俺のいた位置に重なるようにして、突如としてぼうっと浮き上がった人影。  くすんだ白い服は闇の中で発光しているかのようだが、近くで見てもその服と肌との境目が分からない。そもそも腕と胴体すら切り離されていないのか、全てが塊になっているかのような体は気味が悪い。黒くぼさぼさの髪が深く顔を覆っていた。  一目見て、それが異質であること、そして禍々しい存在であることを察する。  異形は白の声を聞いているのかいないのか、ただ佇んだまま。  しかし。 「お前の大切な松前謙介が奪われますよ」  白がそう言葉を発した瞬間、異形は前動作もなく風を切り走り出した。走る、というよりも滑るように宙を移動していると言ったほうが正しいだろうか。  その様子を見て、白は血の気を失った顔に密やかな笑みを浮かべていた。 「千年に渡る貴様の執着を見せてみろ、近づくものよ」
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