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 漆の板状の器に乗った小豆色の塊に、木の風合いを残す黒文字を差し込む。手に心地よい抵抗を感じながら一口大に切って、刺して、口の中へ迎えた。  ほんのりと上品な甘さが広がって、奥歯で噛み潰す独特の触感が実に美味だ。鼻から息を抜けば、これまた小豆の良い香りが感じられる。  羊羹と一緒に出された淹れたての茶を持ち、愛用の湯呑に口をつける。本当は抹茶の方が良いが、ただの八つ時に抹茶を立ててくれという我儘はさすがのおれでもしない。  それに、煎茶も煎茶で良さがある。黄色がかった緑の澄んだ色も美しいし、適度な苦味が先程口に入れた羊羹の味を薄めて、これまた良い塩梅に整えてくれる。  この羊羹を手土産に持ってきた謙介は、自分の手元にも同じように羊羹と茶の一揃いがあるにも関わらず、おれをじっと見つめ続けていた。 「そんなに見ても、おれの分はあげませんよ」 「あっ、いや、別に欲しくて見てた訳じゃない」  謙介はそんな自分にようやく気づいたようで、黒文字の扱いに少し不思議そうな様子を見せながらも、羊羹を口に運んだ。  もぐもぐと咀嚼しているが、あまり美味しさを感じている様子はない。あまり甘いものは好きではないのだろうか。 「白って本当に羊羹好きなんだな。美味しい?」 「栗が入っているとより良いですね」 「……そう。今度は栗羊羹にするよ」  そんなおれと謙介のやりとりの何が面白いのか、部屋の隅に控えている薄紫が口元に手をあててくすくすと笑っている。  障子を開け放っている縁側からは、緑豊かな庭の様子が眺められ、心地よい風が吹き抜けている。  強すぎる夏の日差しは長い庇に遮られて直接部屋の中へは入ってこないが、それがまた居心地が良い。  あの事件が起きてから、さらに二週間近く経過している。  おれはあの後力尽き、気がついた時にはまた布団の上にいた。それからずっと療養をし、ようやく起き上がっても何とも無い位に回復したのだ。  薄紫が組の者を呼び、ことの犯人であった彼女の遺体は家族の元へ戻されたと聞いた。  組の者というのは、この町に住み、神代の存続、活動に力を貸してくれている者たちのことだ。寺で言う檀家のようなもの。その中には口伝師も含まれている。  彼女が何をしたかを聞いた家族たちは恐れ慄いて、おれの体調が戻ったら赦しを請いに来たいと言っているようなので、いずれ会わねばならないだろう。別に赦しを請うもなにも無いのだが。  屋敷で起こったことに、警察は介入していない。この町の警察にも組の者が上層部に入っているので、介入してきても特に何の問題もないが、この屋敷に何も知らぬ者を入れるのはいろいろと障りがある。  薄紫の力が戻ったおかげで、この屋敷の中にいたこの世ならざるものたちは皆一斉に次元の外へ締め出されたようだ。  薄紫はこの屋敷から一歩たりとも出られないから仕方がないのだが、薄紫がこの世ならざるものの対処をしてくれたら、それが一番楽なのではないかと思う。  謙介が必死に集めてくれた汚物も組の者によって適切に焼却され、改めて屋敷の中も清められた。今は事件の痕跡を探し出すほうが難しいだろう。 「白。ずっと改めて聞きたいと思ってたんだけど。口伝術っていうのを受けたからって、本当に神代本人になれるもんなのか? 要は人から話を聞くだけだろ」  あれからずっと、何かを考え込んでいる謙介からの問いに、おれは湯呑に口をつけて喉を湿らせた。 「スケは、何かとても幼い頃の印象深い記憶はありますか」 「え、俺? うーん、人参が嫌いだったことかな。母親がなんとかして食わそうと甘いグラッセにしてくれたんだけど、どうしても食えなくて、残したら怒られるから、洋服のポケットにしまったんだ。ただ服に染みてきてバレた」  部屋の隅で、またくすりと薄紫が笑う。 「それが、本当にスケの記憶である、という確信はありますか?」 「え、当たり前だろう?」 「親から思い出話で聞かされた、ということはありませんか? こんなことがあったと、笑い話として。幾度もそうして聞かされれいるうち、自分でもそれが己の記憶のように感じられる」  謙介は一度口を噤んだ。しばし考えて返ってきた答えは、「よくわからなくなった」だ。 「おれにも、そういったものがあります。本当に幼き頃、池を泳ぐ魚を捕まえようとして、そのまま池に落ちた。池の底の岩で深く掌を切った、と。その時の傷跡は……当然ながらこの体には残っていませんが、初代神代の体には大人になっても残っていました」  そう話しながら、昔は傷跡が残っていた、自分の左手を見る。小さな、まだ大人になりきれていない子供の手だ、と自ら思う。 「しかし、今になって思うと、あの記憶は本当におれのものなのかが怪しい。幾度も母に、こんなことがあったと笑いながら話されて、自分の記憶として捉えていたような節がある」  謙介は口を挟まずに聞いていた。 「口伝術はそれに似ている。もちろんその精度は比ではありませんが、感覚として全く分からないものでもないでしょう」  話に納得したのか否か、謙介はそれからしばらくまた黙り込んだ。  おれもまた羊羹を一口、切り分けて口の中へと入れる。羊羹の甘さを堪能しながら、しかしおれは謙介が真に何を問いたいのか理解していた。 「……おれは、出来損ないなのだと思います」  つい、口をついて出た言葉は、本来ならば口にしてはならないもの。 「出来損ない?」  先を問いかけるように、謙介の真っ直ぐな瞳がおれを見る。  しかし、おれには答えることが出来なかった。  スケが、神代の歴史を知って尚、おれを、おれとして認識してくれることを、嬉しく思ってしまう……と。   ただ首を振り、自らを落ち着かせるように大きく息を漏らす。  おれには確かに、幾年月を生きてきた記憶がある。おれは神代だという確信もある。だがそれと同時に、別の自我のようなものが潜んでいる気がするのだ。  誰かにおれがここに居ることを認めてほしいと、深い深い井戸の底で、弱々しい声で懸命に叫び続けている存在が。  恐らく、神代の歴史がはじまってから、あまりにも時間が経ちすぎたのだ。口伝術が完璧に成りもせず、人の体はその負荷に耐えきれない。  おれがあと十年生き延びて神代の仕事をやりきったとして、次の白はまたきちんと神代になれるだろうか。そこでまた幾人もの赤子の命を奪って、事件を起こした彼女のような苦しみを持つものを生んでしまうのではないか。  この式の限界を感じながら、しかしおれは続けねばならない。  最後の一切れである羊羹を口に入れ、茶を啜ると息を漏らす。 「さて、では……真殿に行きましょうか」  何故だ、という眼差しで謙介がおれを見る。 「貴方の体に別の名を与える術をまたして差し上げます」  それを受けに、わざわざ羊羹を携えて来たのではないかと問いかける。だが、謙介は不思議と動く様子もなく、そして首を振った。 「また白を気絶させたくない」 「あの程度の術、何てことは……」 「それでも!」  おれの言葉を遮るように、謙介は語気を強める。 「他のことは、人の命がかかってるし、仕方がない時もあると思う。でも、もう俺のことで白の命を削りたくないんだ」  謙介の茶がかった瞳がおれを見る。懐かしい色だ、と思う。 「近づくものを放置しておけば、近いうちにスケが死にます」 「分かってる。でも、今はあれが目に入っても何ともなくなった。白が作ってくれた俺の部屋の次元はあるし、今は誰も俺のことを真名では呼んでない。だから、あれが近づいてきている様子はほとんどない」 「あの近さでは、それも貴方が子を成すまで保ちませんよ」 「それも分かってる。だから、白が知る限りの、あの近づくものについてのことを教えてくれないか。俺自身で、なんとかしてみたいんだ」  謙介の態度と口調から、その決意の硬さを知る。 「薄紫、茶のお代わりを」 「かしこまりました」  言いつけると、急須を持って薄紫が部屋を出ていく。  おれは、記憶の柔らかいところに触れるような感情を覚えながら、ゆっくりと当時のことを思い出して語り始めた。
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