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 ――あれは、おれが神代の役目を託された三百年後くらいのことだったと思います。  犬神という名前くらいは聞いたことがあるでしょう。犬を、その首だけを出すようにして地面に生き埋めにし、その犬が餓死する寸前に首を切り落とすことで、自らを呪わせるようにこの世ならざるものを呼び込む術です。ただ、当時すでに禁止されていた禁術でした。  禁止されていたということは、やる者がいたということです。当然、犬神が憑くとそのものに利益になることもあった。利益とはそのもの、富ですね。  松前家はその禁術を行ったようです。おかげで家は栄えましたが、この世ならざるものに憑かれ、その術を行った二年後に生まれてきた長子は犬の姿をしていました。  正しくは、犬と人の入り混じったような姿とでも言いましょうか。この世ならざるものを生んでしまった奥方は自害し、その息子の姿に恐れおののいた松前家の主人が、おれの元へ生まれたばかりの息子を抱えて駆け込んできたのがはじまりです。  あの男は大した者でしたね。心の弱い妻は死んだものだから、跡取りはこの息子しかいない、息子を治せ、決して殺すなと言ってきた。  そんな状態の人の姿など、おれも見たことはありませんでしたが。この世ならざるものは、その赤子と複雑に絡み合っていました。命の大半を占めていたと言っても過言ではなかった。この世ならざるものをそのまま祓えば、赤子も同様に命を落としたでしょう。  あんな男の言うことなど聞く道理もありませんでしたが、罪のない赤子を殺すのは忍びなかったので、おれは赤子を一時引き取って、その生命が術に耐えられるよう成長するまで待つことにしました。  赤子はほとんど犬でしたね。白い毛をした、小さな子犬。やはりこの世ならざるものだからか、犬だからかは分かりませんが、成長は早かった。  ものの二年ほどで、すっかり大きくなりました。奇妙な犬の見た目のままですが、言葉も解すようになった。  それからさらに五年一緒に暮らし、十分に生命が術に耐えられるようになったところで、おれはこの世ならざるものを祓いました。息子はもうすでにすっかり成人の姿にはなりましたが、人の姿に戻りました。  それで全てが終わったかのように感じていましたが、彼が子を成したところ、その長子にあの近づくものが憑いていたのです。   「つまりあの近づくものは、犬神……っていうことか?」  一通りの歴史を語り終えたところで、謙介が尋ねてくる。おれは、薄紫があたらしく淹れてくれた湯呑の茶を飲みながら、首を振った。 「一般的な犬神とは全くの別物であることは確かです。真名を聞き出す術もあるのですが、何故かあれには効きませんでした。当時のおれが他にも色々としましたが、結局祓うことは出来なかった。これだけの時間が経ってなお、他に見たことがないような異形です。ただ、簡単に対処のしようがあることだけが幸いでした」 「あ、それなんだけどさ。俺ってなんでその対処ってのがされなかったんだろう」  おれは顎に手をやり、ふむ、と息を漏らした。 「ここ四十年の記憶はおれにはありませんし、家の歴史が途絶えるのに格別な理由もない気がしますが……スケの父は長子ではありません。次男です。恐らくスケの伯父にあたる人物が、若いうちに『失踪』しているはずです」  あ……と、謙介が声を漏らす。 「そっか、親父は伯父さんが標的になってた分猶予があって、俺が生まれたってことか」  言葉に頷き、おれは改めて湯呑を置くと立ち上がる。  庭に目を向ければ、外の日差しが昼間の苛烈さを緩めている。もうすぐ陽も暮れるだろう。早い所術を済ませて、夕飯前には目を覚ましたい。 「これだけ話を聞いて分かったでしょう。貴方はあれと付き合っていかねばならないのです。真殿に行きますよ」  そう、謙介の横を通り過ぎようとした時、それを留めようとするように、謙介はおれの手首を握った。  しっかりと握り込まれた謙介の手は、おれのと比べて大きく、そして温かい。 「俺は『お前』と一緒に、大人になっても、ずっと生き続けていきたい」  謙介の唇から発せられた言葉を、おれは始め、きちんと認識出来ていなかった。  目を数度瞬き、ようやく、意味を理解する。 「お前自身を、使い捨てなんて言うなよ」  胸の奥で、何かが疼いた。  おれの中に潜むものが泣いている。喜びの涙だ。ここにいる、消えたくない、死にたくないといつも叫んでいた彼の歓喜を感じて、息が詰まる。  出来損ないのおれには、口伝術を受けていた時代の自分の記憶がある。これは本来ならば、口伝術が完成した時に同時に失われるはずのものだ。  今まで恥ずかしくて、誰にも言ったことのない事実。  日々、一人で眠るこの大きな屋敷が恐ろしかったこと。  一日の大半を占める口伝術が辛かったこと。  大丈夫だと、誰かにつよく抱きしめてほしかったこと。  出来ることなら外に遊びに行きたかったこと。  日々己がかき消されていくのが怖かったこと。  そして、屋敷の庭に忍び込んできた男の子と、ただ一度だけ一緒に遊んだこと。あの日の思い出が、口伝術を受ける辛き日々のおれの心を、どれだけ支えてくれたか。  出してはいけないはずの涙が瞳に浮かんで、頬を伝ってぱたぱたと畳の上へ落ちていく。  何も言わず、謙介の腕がおれの体を抱き寄せてくる。暖かい体温に包まれて、そのぎゅっと締め付けられる腕の感触が、ひどく心地よい。  ずっと、誰かにこうして欲しかった。  謙介。口に出しては呼べない名を、心の中で叫ぶ。 「お前だけがそんなに頑張らなくてもいいんだ。俺も一緒にいるから」  何の力も持たぬ謙介に、何が出来るとも思えない。おれが、この古から続いてきた式と宿命を変えられるとも思えない。  それでも、おれがここに生きていることを認識してもらえることが、こんなにも嬉しい。  唇を震わせたまま、その耳元でお互いにだけしか聞こえぬ距離で言葉を紡ぐ。おれをおれと信じてくれる謙介に、ただ、知っておいて欲しい気がした。  本来名を持たぬ白であるおれの、真名を。 「おれは、――」 『真名を告げるもの』 完
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