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 後から考えれば、白はこういった展開になることを予知していて、さらにそうなるように仕向けていたに違いない。  白は組んでいた手を離すと、俺の気を引くように、机の上を指先でトントンと叩く。瞬間、部屋の空気の色が変わったような感覚がした。 「そこで、契約をしませんか」 「契約……?」 「おれは、近づくものの接近速度を遅くする術を持っております。それを貴方に施して差し上げる対価をいただきたい、と言っているのです」 「学校で金儲けか?」  なにかを求められると一気に胡散臭くなってきた言葉に、俺は思わず低い声を漏らしたが。しかし、白は全く動じぬまま首を振った。  瞬時に返された、世俗のものに興味はありません、との言はあまりにも浮世離れしすぎていたが。さらに続いた言葉の衝撃に目を瞠る。 「ただ、おれに忠誠を誓いなさい。臣を守るのは、主の務めです」 「忠誠って……」 「現世ではあまり慣れない行為かもしれませんが、簡単なことです。おれを尊敬し、献身し、服従すること。決して裏切らぬこと。  尊敬とは自然と生まれるものですから、はじめから感情を求めはしません。とりあえずは、いかに疑念があろうと、おれの言うことを素直に聞けば良いのです。それが契約というものになります」  滑らかに語られる言葉に、俺は、身動きすることが出来なかった。軽々しく頷くことも出来なければ、嫌だと突っぱねることも出来ない。  このまま放置しておけば来年には死んでしまうのだったら、迷う余地はないのだが。そもそも、今の状況も、白の存在も、彼の要求もあまりにも現実離れしすぎていて、判断がつかないのだ。  混乱する俺を残して、不意に白が立ち上がった。  そして窓辺へと歩いていく。俺は、彼の足元を見ていた。何の変哲もない白い上履き。新入生らしく汚れのないそれのありふれた様子に、僅かに心が和ぐ。 「スケ、窓の外を御覧なさい」 「嫌だ……あれがいる」  何故かすでに、白にスケと呼ばれることを受け入れている自分が居た。彼は昼間に去り際、俺をスケと呼び、貴方のことですと言った。であるならば、そうなのだろう。 「見なさい」  語調が強まった訳ではない。ただその響きで、俺はそれが命令であることを理解した。  嫌々ながらも椅子を引き、立ち上がると白の隣へと並ぶ。脳裏に、視界の隅で捉えていたあの存在の姿を思い出し、背筋が凍る。  しかし、見なければならない。なぜなら、白がそう命じたから。  俺はゆっくりと顔を上げ、窓の外を見た。 「……いない」  ぽつり、と呟く。眼前に広がるのは、あれの存在どころか、人っ子一人いない学校の校庭だけ。  校庭には、今まで生徒がいて、それを全員が瞬時に投げだしたかのように、ボールやバット、トレーニング用の器具が落ちている。まるでそこだけ時が止まっているようだ。  俺は慌てて、後ろを振り返る。これまでの人生、あの存在が俺から視線を離したことはなかった。常にあれはどこかに居る。校庭にいないのであれば後ろにいるのではないかと思ったが、そこにはがらんとした教室があるのみ。 「どうして。退治してくれたのか?」  呆然と、隣に並ぶ白を見る。彼は問いかけに首を振った。 「近づくものの真名を得ぬ限り、あれを滅することは出来ません。しかし、こうして一時的な避難は可能です」  彼の言葉には意味の分からぬところもあるが、俺は静かに白の言葉を待つ。先程よりもずっと、白へ向ける信頼が増している。早く説明を聞きたかった。 「ここはおれの作り出した次元です。おれが招いた者しか入れぬようにしてあります。分かりやすく言えば、結界……とでも」  頷く。  突拍子もないことだが、理解は出来る。何せこの目で見て、この身で実感してしまっている。信じない訳にはいかない。 「スケにも生活があるでしょうから、ここにずっと居る訳にもいきませんが。夜寝る時等、問題のない範囲でこの次元に来れば、それだけでも時間稼ぎになります。さらに他にも手は講じなければなりませんが」  白は体を窓側に向けたまま、こちらを見る。その一重の瞳を縁取る長い睫毛が、差し込む夕陽を受けて頬へ影を落としている。  「おれと契約しますか?」  落ち着いた声だった。白の声は常に一定のトーンだ。焦りも、どもりもしない。少しだけ籠もったような響きがあるが、耳に心地よい、低くも高くもない中庸な声。  問いかけに、俺は迷うことなく頷く。  気負うでもなく、台詞は自然と紡がれた。 「忠誠を……誓う」  その言葉を口にした瞬間、妙な懐かしさを感じる。そして、まるで歓喜するように、全身の血がざわついている。嫌な感じはしなかった。むしろ……心地よい。  白は僅かに微笑んだようだ。  古の契約が結ばれた瞬間だった。
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