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 歩き初めて早二十分。周囲からはとうの昔に、他の生徒の姿は消えていた。  斜め前を歩く白の後を追い、時折結構な勢いで車が走って行く車道の横を歩く。どうして車は田舎の狭い道をこぞって飛ばしたがるのか。  一体自分がどこへ向かっているのかは理解していなかった。  放課後、言いつけられるままに校門で待っていると、白は程なくして現れ「ついて来なさい」とだけ告げて歩き出したのだ。  どこに行くのかと問いかけはしたが、「来れば分かります」とごく短く返答された。何をしにいくかも問いたかったが、どこへ行くのかも答えてもらえないのだから、問うだけ無駄だろう。  歩き出したのは、俺の家や駅からは反対の山へ向かう方角だ。幾度か来たことのある大きな公園の脇を通り、さらに進むと民家が減ってきた。  俺は生まれてからずっとこの神代町に住んでいるが、なかなか来ることはないエリアだ。山へ近づいているのが分かる位、ずっと傾斜が続き、辺りに緑が増えてきた。  桜の時期はもうだいぶ前に終わったが、あちこちにある桜の木の新緑が美しい。おそらく花の盛りの時に来たら綺麗なのではないだろうか。  周囲の景色を眺めるのも、歩くのも嫌いではないのだが、さすがにそろそろ連れ歩かれる訳を問いたくなってきた。 「白」 「もう着きました」  痺れを切らして声をかけると、白は何を問われるか分かっているとでも言いたげに言葉を返し、そして立ち止まった。  そこは、車道から続く、古めかしい石段の前だった。石段の周囲を鬱蒼とした木々が覆っている。その様子はまさに。 「神社、か……?」 「おれの住んでいる場所です」 「え、家?」 「そう解釈しても問題はありませんよ」  白はそうだとも違うとも言わず、微妙な言い回しをして石段を上りはじめた。  後を追って木々のトンネルの中に入ると車の走る音が少し遠く聞こえて、僅かに気温が下がった気がする。  俺は無宗教だが、神社や寺の敷地内に入ると、いつも空気の変化を感じる。  それは実際に体感として変わっているのか、気持ちの問題なのかは分からないが、どこか神聖な気持ちになるのだ。そしてここには、それと似た気配を感じた。  積み上げられた石の具合で、階段よりも幾分上りにくい石段を上り切ると、同じく周囲を木に囲まれた広い敷地に大きな平屋の日本家屋が建っていた。  とても古い建物であることは使われている木材の様子や、風格から分かる。趣は完全に神社仏閣のそれだが、鳥居や拝殿などはなく、それらと比べると少しだけ地味な印象があった。その規模は別にして、雰囲気としては、修学旅行で見に行ったことのある銀閣寺に似ていると言えば分かりやすいだろうか。  金閣寺と比べて、実に地味な印象のある建物だった。  屋敷の大きさに気圧される俺を尻目に、白は石段から続く石畳を通って、真っ直ぐに家の玄関へと向かう。  彼が、透かし彫りが施してある立派な引き戸に差し掛かった丁度その時。白が戸を開けようと手を上げる前に、戸が内側から開いた。  まるで白が帰ってきたのを事前に察知していたかのようなタイミングだ。 「おかえりなさいませ、白様」  そこに立っていたのは中年の女性だった。薄紫色の着物を身に着け、長い黒髪をゆるく後ろでひとつに纏めている。  柔和な微笑みがごく自然に顔に浮かんでいて、とても優しい雰囲気の人だ。  白の母親かと思う年頃だが、その発せられた口調から察するに、お手伝いさんかなにかだろうか。 「ただいま。これから使うので、真殿を開けてくれますか」 「承知いたしました」  白は手にしていた鞄を自然とその女性に手渡すと、屋敷の中へと入っていく。  俺も横を通ろうとした時、女性は俺にも手を差し伸べてきた。その様子になんとなく意図を汲み取って、肩にかけていた鞄を手渡す。 「スケ、来なさい」  と、鞄を受け取った女性が俺にも静々と頭を下げる様子が物珍しくてまじまじと見てしまっていたが、白に呼ばれて俺も慌ててその後を追った。 「今の、お手伝いさんか? 金持ちなのか、白の家」 「彼女のことは薄紫と呼んでいます。おれの体に何かあったら彼女の所へ連れて行ってください」 「白の体に?」 「見れば分かりますが、また後ほど説明しますよ」  何かとても不穏なことを言われたような気がしたが。その一言で会話を断ち切られてしまった。  屋敷の中は外観から想像する通りの内装だった。  色の濃い板張りの廊下にはいくつもの襖が並んでいたが、白はそれらを開けることなく、奥へ奥へと進んでいく。俺が足を進めると、一歩ごとに廊下の板がみしりと音を立てるのだが、白が歩く音は全くしないのが不思議だ。  屋敷の広さが如実に伝わる長さの廊下の突き当りには、古めかしい両開きの木の扉が待ち構えていた。  扉の中央に閂をかけられるような金属が打ち付けてあるが、その閂は今見当たらなかった。先程白があの女性に言いつけていたのは、この扉を開けておくようにということだったのだろうか。  俺達はあの女性よりも先にここへ来てしまったが。誰かを先に向かわせたのだろうか。  白が扉に手をかけると、ぎぃ、と軽く軋む音を立てて開いていく。  一体中に何があるのかという物々しさだったが、部屋の中は、想像したよりも狭かった。そして、何もなかった、というのが俺としての率直な感想だ。  部屋は正方形、特に何かの祭壇のようなものがある訳ではなく、仏像等もない。板張りの床中央に一畳だけ畳が置かれている。  真正面の壁は一面格子状になっていて、その格子の奥は暗くてよく見えないが、隣の部屋になっているようだ。音や風が抜けるようになっているのだろうか。 「ここは……?」 「真殿と呼んでいる場所です。畳の上に座ってください」  ここは真殿。先程の女性は薄紫。  先程から名前は教えてくれるが、一体何をする人なのか、どういうことをする場所なのかが全く分からないので何の説明にもなっていない。  それでも反抗は出来ないしする気もないので、命じられるままに示された畳の上へと正座する。  背後で再び軋みを立てて扉が閉まった気配がしたが、振り返ることは出来なかった。  なぜなら俺の正面に立った白が俺の顔を両手で掴み、動かせないように固定したからだ。 「白?」 「今から偽の名をスケの体に与え、真名を隠します。そうすれば、次に真名を呼ばれぬ限り、近づくものは貴方を見失う……分かりますね? これは永久的なものではありません。ですが、一定の効果は発揮してくれるはずです」  白は左手で俺の顎を固定したまま、右手で頬を撫で上げた。他人にこんな風に触られることなどないので、奇妙な感覚が腰の辺りからゾクゾクと上がってくる。  振り払いたい衝動に駆られた時、白の薄い唇から不思議な声が漏れ出した。誰に聞かせているとも思えない呟くようなトーンだ。  よく耳を欹てて聞いてみれば、それは日本語のようではあったが、現代の言葉ではないことは確かだ。伝統芸能の能で聞くような調子と言えば分かりやすいだろうか。  あまりにも古すぎて、俺には何と言っているかは分からない。  しかしただ、美しい調べだ、と思った。  一定の調子で紡がれる言葉は、同じフレーズを繰り返しているようだ。それが耳から、じわじわと体の中に染みていくようで。  白の、俺の頬を撫でていた指先がさらに上へと辿り、額に二本の指先が当てられる。  俺よりも体温が低いのか、肌に触れる白の手はひんやりと感じられたが、不思議と二本の指が触れている箇所から、何か別のものが注ぎ込んでくるようにじんわりと熱くなった。さらに重ねて紡がれる言葉の漣に酔いそうになったその時。  白の声が止まった。  不思議に思い、自然と閉じてしまっていた瞼を開くと、そのまま横に倒れ込む白の姿が目に飛び込んでくる。 「白っ!」  咄嗟に腕を伸ばして、体が床に崩れ落ちる寸前で抱え込んだが、白は完全に気を失っていた。目の前で人が気を失った経験などそうあるものではない。 「白、おい、白どうしたんだ」  焦って体を揺さぶってみたものの、白が目を覚ます気配はない。そこで俺はふと、先程言い含められた言葉を思い出した。  「おれの体に何かあったら彼女の所へ連れて行ってください」と。もしや白はこのことを言っていたのではないだろうか。  俺は白を横向きに抱え上げた。俺よりも十センチ以上背の低い白のことは、問題なく抱き上げられるだろうという予想はしていた。  たが持ち上げた白の体は、その見た目以上に軽かった。まだ成長期途中なのではないかと感じさせる、体の柔らかさすら感じる。  先程の女性を探さねばと部屋を出たが、探す必要もなく、扉を出たすぐ目の前にあの女性……薄紫が立っていた。まるで俺が部屋から出てくるのを待ち構えていたかのようだ。 「こちらへ」  俺に抱えられ、気を失っている白の姿を見ても驚く素振りを見せず、薄紫はそう言って廊下を歩き出した。  至って冷静な薄紫の態度に、焦っていた気持ちが少しだけ落ち着いて、俺は静かにその後に続く。  今度の目的地はそう遠くなかった。廊下の角を一つ曲がり、二つ目の襖を開けるとごく普通の和室があった。  中央には、今しがた用意されたばかりといった様子で綺麗に整えられた布団があり、部屋の隅に文机が置かれている。その文机の脇には、先程俺と白が薄紫に渡した学生鞄が二つ並べて置かれている。  ほとんど私物のない部屋だが、もしかしてここが白の自室なのではないかと思い至った。  促されるままに白を布団の上に寝かせると、薄紫がその枕元で、陶器の香炉に香を焚きはじめた。燐寸の焦げる匂いの後で、ふんわりと、奥ゆかしい良い香りが漂いだす。  落ち着いて白の様子を見れば、顔色は悪いものの、呼吸は穏やかなようだ。その香が、何かに効くのだろうか。 「あの、白は……一体どうしたんですか。急に倒れたんです。病気か何かでしょうか」  白の横に座ったまま、俺は薄紫へと問いかける。答えてもらえないかもしれないと危惧したが、彼女は俺を一度見つめてから、改めてその場に腰を下ろした。  そして、見た目通りの実に優しい響きを持つ声で話し出す。 「白様のお力は、人の身に余っているのです。一定のお力を使われると、こうして意識を失い、休息が必要になります」  人の身に余る。なんとも仰々しい言葉だが、最早驚きはしない。そもそもこいつは人なのかと半ば疑っていたので、人だと分かっただけでも安心する。 「白はその……能力者、というようなものなんですか?」  再度の問いかけに、薄紫は少し困ったように笑った。 「能力……そうですね、端的に申し上げるのは、難しいですね。長いお話をしても構いませんか?」  願ってもない申し出だ。  白は白の必要だと思うことしか説明してくれないので、白が一体何者なのか、という根本的なことも俺はまだ分かっていない。  これで白に対する疑問が解けるかもしれないと、俺はただ頷く。  それから薄紫の、前置き通りに長い話が始まった。
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