プロローグ

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 私の目の前に一冊の背表紙が見える。 『こころ 夏目漱石』  私は先ほどから、いや、もっと前からその文字とにらめっこしている。  帰りのホームルームが終わった後、ほかの生徒が教室を出る中、私は約束通り教室に居残った。少し時間が経てば教室にいるのは私と先生のみになった。そのタイミングで先生は手のひらをひらひらと動かして私を呼ぶ。私は犬かと心のうちだけでツッコミながらも従うように教卓へ向かう。  先生からどんなお叱りの言葉を言い渡されるかと内心緊張していたが、先生から渡されたのは一冊の本だった。 『こころ 夏目漱石』  とりあえず手に取る。紙の独特なにおいがする。  夏目漱石は知っているけどもこのタイトルは聞いたこともない。私が知っているのは猫が人間のように話す冒頭で始まる…… 頭の隅々を探したけどもそのタイトルすら浮かばなかった 「それ読んで、明日までに書いて提出しなさい」  先生は何やら忙しそうにパソコンに文字を打ち込んでいる。教室内に古そうなパソコンの稼働する雑音が流れていた。  私は先生と握られた本を交互に見比べた。 「先生が選んでくれたんですか?」 「本当は自分で選んでほしいが、それをしていたら辻村の場合、二学期が終わりそうだからな。それに、部活を休んでも欲しくはない」  キーボードを打つ音が教室に響き渡る。私はその音に合わせて自分の脳に状況を打ち込む。 「部活を休む?」  私の問いに先生はキーボードを打つ手を止める。椅子を九十度回転して体ごと私に向ける。 「そりゃそうだろ? 課題を出さない生徒に部活動に出ている暇があるか?」 「それは困ります! せっかく準備してきたのに」  思わず前のめりになって先生に訴える。今日はみんなでリレーをしようと決めていて、私はそれを以前から楽しみにしていた。水泳の練習はとにかくきつい。練習ではショートサークルでタッチするのと同時にスタートこともあるし、気の遠くなるほど本数の多い練習もある。 それよりも、私が最も苦手な練習は少ない本数で出来るだけベストに近いタイムで泳ぐ練習だ。よくほかの部活をしている友達からは本数が少ない方が短くて済むし楽じゃないかと言われるが、それは大きな間違いだ。ベストに近いというのは、ほぼ全力だ。だから一本目から全力を出して、それからも同じようなタイムで泳がなければならない。躊躇して一本目のタイムを落とすことも、スタミナ切れでどんどんタイムを落とすことも許されない。この練習は体はもちろんだが、心に相当負担がかかる。 そんな厳しい練習を夏休み中やり続けて、やっと今日は楽しいリレーをすることになっていたのだ。まさか、それができないなんて。 「部活の準備を周到にするのなら、ぜひ勉学にもその能力を発揮してほしいものだ」  痛いことを言う先生だなあ。私は決まりが悪い顔になる。 「もちろん、今日で終わらなかったら明日もだからな」  先生が私を見てにやりと笑う。先生からの圧を感じて私もひきつった笑顔を作ってみせる。校庭からは野球部の練習初めの挨拶が聞こえた。
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