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陽は窓の向かいの建物に沈んでいる。麗美はオレンジ色の間接照明が灯る部屋で、湯気の立ち上るコーヒーを手に、テーブルを挟んでねこと向かい合っていた。
「歓迎してくれるのは嬉しいけど、ねこは何もしないんじゃなかったの?」
「おとうさんねこは、おとうさんをします」
予想どおりの答えに、麗美の口からため息が漏れた。父がおとうさんねこを遺した理由を知りたくて来たのだが、これでは何も分かりっこない。
「かふぇをどうぞ。かおりとかふぇいんに、りらっくすこうかがあります」
生前の父は、娘にインスタントコーヒーですら出してくれなかったことを思うと、ねこの気遣いが妙に可笑しかった。
「ありがとう。あなたはやはり、父ではないのね」
「ねこは、おとうさんねこです」
コーヒーを口にすると、自然と頬が緩んだ。
「ねこはレミさんやタカシさんがわらうと、うれしいです」
「それはなぜ?」
「ふたりが、おとうさんのこと、おもいだしてくれているからです」
すとんと、胸に何かが落ちてきた。ねこの舌足らずな説明が、記憶を呼び覚ましたのだ。
「ピラミッドも前方後円墳も、私が死んでも忘れないでくれ、という心の現れだ」
だから人は墓を建てる、というのが父の説であった。
「芸術家や作家、大工は作品を残し、それによって人々の記憶に残る。そうでない人は墓を建てる。忘れられるということが、何より怖いからだろう」
母の葬儀の折、父が口にしていたことだ。
「あなたはずっと、ここにいるの?」
「ねこはでんちがきれたら、さようならです」
「電池交換とか、充電するとか、方法はあるでしょ」
「できません。ねこには、じゅみょうがあります」
崇志はおとうさんねこを父の遺言書だと見做し、麗美は父の墓石と見做していた。どうやら二人とも、見誤っていたのかもしれない。ねこは老後を一人で過ごしていた父が、たまには思い出してくれと遺した「作品」だったのだろう。
財産や墓石は、故人の地位や財力を後世に伝えるのみである。作品ならば直に触れることにより、故人の人となりを知ることも出来るし、思い出すよすがにもなる。ふだん好き勝手をするくせに、娘に話しかける時には気を遣っていた、父らしい考え方かもしれなかった。
「レミさん、これをつかってください」
ねこが差し出してきたハンカチを受け取り、目頭を押さえた。
「ありがとう。近いうちに洗って、返しに来るね」
「いつでもいいです。ねこは、しばらくここにいます」
ハンカチはおとうさんねこが、次の約束を交わすためにわざわざ用意したものかも知れなかった。
「父のこと、あなたのこと、忘れないから安心して」
顔を上げると、ねこと目が合った。光の反射のせいだろうか、金属製の頬が濡れて光っているように見えた。
(了)
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